あなたはどんな本をご所望ですか?
明治20年代が舞台のエンタメ書店小説
話題作を相次いで発表している人気作家・京極夏彦さん。その新シリーズ「書楼弔堂」の第1巻『書楼弔堂 破曉(はぎょう)』が文庫化された。明治20年代半ば、東京のどこかに存在する3階建ての書店を訪れた客が、店主との対話を通して、自分にとってかけがえのない本に出合う、という連作形式の短編集だ。本好きならワクワクせずにいられない魅力的な設定は、どのように生まれたのか。
「もともとある編集者から、明治時代の本の売り方は今とは違ったはずですね、と言われたんですね。今、本屋には読み切れないほどの本が並んでいて、お金を出せば誰でも手に入れられる。でもこうした状況は突然できあがったわけではなくて、時間をかけて徐々に完成したものです。その黎明期を書くのは面白いかもしれないと思った。そこで明治期の本屋を舞台に書物と人の関わりの変遷を描く、という基本線を作りました。サブタイトルの『破曉』とは、夜が明ける前、ぼんやりと光が差している状態。一般人もやっと本が買えるようにはなったけれど、取り次ぎの仕組みは整備されていないし、簡単に手に入れられるわけでもない。明治20年代は出版業界にとってまさに夜明け前ですね」
病気療養のため、家族と離れて暮らしている士族の男・高遠は、近所に風変わりな本屋があると聞きつけ、足を向ける。和書、洋書はもちろん新聞、雑誌、錦絵まであらゆるジャンルの書物を扱うその店の名は、弔堂。白装束に身を包んだ主人は高遠に尋ねる。「読むのがお好きなのですか。本がお好きなのですか」。
「弔堂も作中で言っていますが、本は単なるデータファイルではありません。一昔前、電子書籍が普及する前、生のテキストデータだけを販売するという形がありましたが、これは駄目です。たとえ電子であっても、書籍というのはパッケージされた商品として価値を見出されるもので、ユーザーはデザインやレーベルも含めた「本」に対価を払うんです。本を買うという行為は、情報を得るだけの行為ではない。読むだけなら図書館でもいいわけですが、図書館はいくらお金を積んでも本を売ってくれない(笑)。今よりもはるかに本が手に入りにくかった明治時代、こんな本屋があったら嬉しいでしょう。僕だったら通いつめて破産してます」
時代を彩った偉人たちが一冊の本を探して訪れる
やがて弔堂の戸口に、杖を突いた50歳くらいの客が現れた。名は月岡芳年。斬新な画風で浮世絵に革新をもたらした天才絵師である。自分には何かが足りない、と語る芳年は、人生の最後の瞬間まで仕事ができる力を与えてくれるような本を、探しにきたのだという。芳年の悩みの根底にあるものを見抜いた主人が、おもむろに差しだした一冊とは―。「このシリーズは店を訪れた明治人に、弔堂が本を売りつけるというだけの話です。客が来て、話をして、本を買って帰る。毎回それしかない。きわめて地味。その際、いかにも客のイメージ通りの本を薦めても面白くはないわけで。たとえば夏目漱石に猫ちゃんカレンダーを売りつけても、小説として面白くない(笑)。だからあえて微妙にずれた本を選ぶ筋立てを考えます。でないと全話同じになってしまうし」
主人は言う。「本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです」と。
「その通りだと思いますね。明治時代と違って、今はもう本だらけでしょ。でもそんな幸せな出合いは、まずそのへんに転がってはいない。だから結局たくさん読むことになる。よく自分に合う本が分かりませんという人がいますが、気にせずどんどん読んだらいいんです。書店に並んでいる本は、複数の人が面白いと認めたから出版されたものです。目についたものを買ってきて、面白くなるまでひたすら読んだらいいんです。一度合わないと感じても、ずっと後になってから面白さが分かるということもある。もしどうしても楽しめないとしたら、それは読み方が悪いんです(笑)。現代において、人生の一冊は巡り合うものじゃなく、自分で作り出すものじゃないかと思います」
月岡芳年がゲストの第一話「臨終」に続き、第二話「発心」では若き日の文豪・泉鏡花が、第三話「方便」では妖怪博士と呼ばれた哲学者・井上圓了が勝海舟の紹介で来店する。弔堂の薄暗い店内で、史実とフィクションがつかのま交差する瞬間がなんとも魅力的だ。
「客の人選はなるべく偏らないようにしたんですが、四話目が岡田以蔵、五話目が巖谷小波ですから、一応ばらばらですよね。できるだけ職業や境遇に幅を持たせようと。僕の小説なので、お化けが出てこないと納得してくれない読者も結構多く(笑)。ややお化け寄りの人選になった感はあります。作中にも少し書いていますが、本を読むという行為は、幽霊を見ることに似ている。お化けと本はアナロジカルな関係にあるので、このシリーズもお化けと相性がいいんです」
一冊の本によって、客の人生は大きく変わったように見える。しかし、実際は本が人生を変えることなどありえない、と京極さんは話す。
「残念ながらいくら本を読んでも人生は変わりません。もし変わったと感じる人がいたら、それは気のせいか幸せな勘違い。読書体験が人生の支えになったり、励みになったりすることは確かにありますが、人間を変えるのは結局日々の行いであって、本ではありません。そもそも人間は生まれてから死ぬまで、それほど変わらないですよ。無理に変わろうとするよりも、自分は自分なんだと認めて、楽しく生きた方がいい。その手助けだったら本はいくらでもしてくれます」
本との出合いによって、鏡花が鏡花として、圓了が圓了として生きるようになる姿を描いているのだ。では、語り手である高遠は、どんな人生を送ることになるのだろう。
「この小説を読んで、ちょっとした違和感を覚える方もいるかもしれません。何か文がヘタじゃん(笑)。いや、視点人物は固定されているのに地の文に人称がないんですね。結構書きにくいんです。でもこの時代、一般人に『私は』という明確な主体性があったかどうかは疑わしいなと。もちろん口語では使っていたでしょうが、言文一致したばかりだし、文を書くとき僕は私はと書けたのだろうか。主人公は読書を通じ、最終的には『私は高遠です』と言うにいたる。こうした近代的な自我の確立にも、書物は一役買っていると思うんです」
明治出版界の変遷を5年刻みで描いていきたい
明治20年代といえば社会の西欧化が進み、競争が激化していった時代だ。高遠はそんな流れに乗り切ることができず、本を読んだり、あちこちの橋を渡ったりして、無為な日々を送っている。現代のニートにも通じるこうした生き方には、京極さんなりの時代の見方が表れている。「明治というのは確かに混乱と激動の時代でした。だからといって、日本国民のすべてが何らかのイデオロギーを持って、果敢に社会と闘っていたわけではないはずです。むしろそんなことはどうでもいいよ、という弱者の方が圧倒的多数だったはずです。それなのに明治ものの小説や映画では、立派な志を持った軍人や政治家ばかり登場する。それってどうなんだろうという気持ちは前から抱いていたので、このシリーズでは決して有名でもなければ立派なこともしない、どうでもいい人たちを主人公にしました」
他の京極作品とリンクするキャラクターが登場するのも、ファンには見逃せない特色だろう。最終話「未完」には、あの「百鬼夜行」シリーズと深い関わりを持つ宮司が登場、弔堂の主人と競演を果たしている。
全4巻を予定しているという本シリーズは、第二作『書楼弔堂 炎(えん)昼(ちゅう)』が先日刊行されたばかり。今後どう展開していくのか、大いに注目していきたい。
「時代は違うけど同じ古書店だし、何か関係はあるだろう……という反応を予想して設定だけはしておいたのですが、使う場面がなくて、最終話の客にしてしまいました。5年刻みで書く予定なので、シリーズ2作目の『炎昼』の舞台が明治30年代前半。全4巻で明治出版界の変遷を辿るつもりです。本が売れない、出版不況だと言われますが、書店にこれほど多種多様な本が並んでいる状況というのは、当たり前ではないんですね。これを書いたことでつくづく恵まれた時代に生きているのだなと実感しました。もっと本が読みたい、買いたいと読者にも感じていただければ、本望ですね」