私が高校生だったころ――というと、何ともう三十数年前になります。通っていた墨田区公立高校の近くに、年配のご夫婦が経営されておられる本屋さんがありました。

当時の私には、学校の図書室と学校の近くにある区立図書館とこの本屋さんを結ぶルートが、まさしく黄金の三角形でした。

ただし図書室や図書館と違い、町の本屋さんには、おこづかいが苦しい時にはなかなか近寄れません。欲しい本がそこにあるとわかっていながら、後ろ髪を引かれるようにして去るのは辛い。でもやっぱりフラフラと寄ってしまって、棚を眺めているだけでも一時間や二時間はすぐ過ぎてしまったものでした。

何しろ昔のことなので、この本屋さんの店名を思い出せないのが申し訳ないです。もうお店はなくなってしまったので、現地で看板を確かめることができず、記憶を探ると喉元まで浮かんでくるのですが、う〜ん。駄目だ、思い出せない。あんなに立ち読みさせてもらったのに。

そうなのです。私はしばしば店内で時間を過ごしていましたが、店主のご夫婦には、立ち読みを咎められたことは一度もございませんでした。新刊本を手にとって(もちろん丁寧に扱うよう心がけていたつもりですが)、結局は買わずに(買えずに)しおしおと立ち去ることも多かったのに、それで嫌な顔をされた覚えもありません。良い意味で客を放っておいてくれるお店で、おかげで私は安心して書棚のあいだを巡り歩くことができました。

現在のように毎日たくさんの書籍が店頭に出る時代ではありませんでしたから、「新刊本」が一年や二年はフツーに並べられていましたし、文庫本では、古本屋さんとどっこいどっこいの床しいものが、ページの端っこが黄ばんだりしながらも、棚の中に収まっていました。

思い出してみると、この本屋さんの特徴は、近くに学校がいくつかあったのに、参考書や問題集をほとんど置いてなかったということです。雑誌も少なかった。その分、文庫本は品揃えが豊富でした。

創元推理文庫とかハヤカワSFの〈青背〉とか、みんなここで買いました。みんなといってもたかが知れているわけですが、小銭入れからお金を出して支払うと「毎度どうも」と声をかけてもらって、その日は家に帰る足取りもはずみました。今思い出すとあらためて不思議なのですが、店内で同級生に会ったことがありません。学校と最寄り駅を結ぶ直線ルートからは外れていましたが、けっして遠くにあるお店ではないのに、そういえば誰にもあったことがない。たまにサラリーマン風のお客さんが来ていましたが、学生は私ぐらいのものでした。

今風に言うなら、ちょっと隠れ家みたいな本屋さんだったのです。まあ、当時の私が何から隠れたかったのか、何かから隠れる必要があったのかどうかは定かではありませんが。

あの本屋さんは本当に実在していたのかしら。実は、私の心のなかだけの本屋さんったのではないかしら? 

というふうにお話を持っていくと、小説になりますね。

「本屋さんの楽しみ」についてお訪ねを受けると、私はよくこう答えます。「安心して一人になれること」と。

人は一人では生きられませんし、個性とか能力とか魅力とかいうものも、人間関係のなかにあってこそ生まれたり、磨かれるものでしょう。それは充分承知の上で、でも、やっぱりくたびれて、一人になりたいこともある。孤独に身を噛まれる〈独り〉ではなく、のんびり、のびのびと味わう〈一人〉に。

そんなとき、私にとって、本屋さんは今も、ほかのどこよりも大切な隠れ家です。

日販通信2010年7月号「書店との出合い」より。