トークショウをやった。ショウといっても大げさなものではない。新宿紀伊國屋ホールで、作家の逢坂剛、北方謙三の両氏とともに「本の雑誌」発行人の目黒考二氏の司会で、「よい編集者、よくない編集者」というタイトルのもと、いろいろと好きな話をさせていただいた。
読書の秋、ということもあるのだろう。それなりにお客さんもきて下さり、喋る相手もふだんからよく会っている友人なので、会場はけっこう盛りあがった。とはいえ、テーマがテーマなので、お客さんの中には相当数、この四人の編集者がきている。彼らは戦々恐々、「よくない――」の部で、自分の話がでるのではないかと駆けつけているのだ。
だが、こうした担当作家の「行事」につきあうくらいだから、よくない編集者であるわけがない。たまにからかわれて、笑いのネタにされることはあっても、きていた編集者たちは、誰も、作家とのコミュニケーションを楽しみ、仕事熱心な「よい編集者」たちである。
誤解のないように書くが、彼らが作家に「尽す」から、よい編集者なのではない。また、トークショウにこなかったからといって、こない編集者がよくない、といっているのでもない。
編集者(それも文芸の)の仕事は、作家からよりよい原稿をとることである。編集者は、そのためにあれこれと知恵を絞る。その中に、はたから見れば、「作家にゴマをすっている」ような行為もあるかもしれないが、単にそれだけではもちろん、目的は果たせない。ほめるときはほめ、疑問を感じたら率直にそれを口にする編集者が、すぐれているのだ。ただし、互いにプロ同士である以上、何もかも率直にいってうまくいくかといえば、そうとは限らない。このあたりが微妙なところで、いかにプロとはいえ、いや、プロであるからこそか、野球でいえば全打席ホームランを狙っているのではない、ということが、この「率直さ」の問題になる。
つまり、ホームランを狙って打席に立っているときなら、打者に対し、スタンスやスイングについての細かなアドバイスも有効だが、シングルヒットや犠牲フライ、さらにはバントをしようと考えている打者に、「ホームランのアドバイス」は、無用なわけである。
もちろん、この場合の打者というのは、ずぶの新人ではないわけで、キャリアが十年以上、それなりに成績を残してきたプロの場合にのみ、あてはまる話だ。ずぶの新人ならば、バッターボックスに立つチャンスもそれほど多くはないわけで「一発」を狙うのは、むしろ当然である。新人なのに、渋いシングルヒットでは、むしろ困ってしまう。
編集者は、ひとりで十人から二十人の担当作家をもっているのがふつうだ。その中には大ベテラン作家もいれば、私のような中堅、そして新人と、さまざまに分かれている。ベテランになればなるほど、編集者がアドバイスをする機会は少なくなる。新人に対しては、もちろんその逆だ。
大切なことは、編集者と作家のあいだの信頼関係である。両者のコミュニケーションがうまくいっていれば、ベテラン、中堅、新人を問わず、アドバイスが必要なとき編集者は、それをためらわずにする。
そういう意味で、編集者が、作家の「行事」につきあうのはよいことだと私は思う。
作家と編集者の関係に、「どちらが上」というのはない。私たちはおおむね、自分より年下の編集者に対しては、荒っぽい言葉づかいをするが、それは、信頼や友情があってこそのものだ。そうした関係のない編集者には、むしろ、ていねいな言葉づかいをする。
トークショウのあと、出演者とその担当者たちは、新宿の酒場に流れた。
そこでは、当然、ステージの上にいたとき以上に、活発な話がとびかう。作家どうし、編集者どうし、あるいはいり乱れて、互いの話、あるいはこれからスターになりそうな作家の話などで盛りあがった。
作家にも、「流行作家」とか「スター作家」と呼ばれる人がいるように、編集者にも「スター編集者」がいる。彼らは、作家とちがって表に名がでることはめったにないが、ある時代を代表するような文芸作品(文学ではない)が作られたとき、そこに必ずかかわりあっている。
私たちのあいだでは、あの本、誰が作ったの、ああ、やっぱり彼か――といった具合で名前が囁かれる。
ちょうど作家どうしがライバル意識を燃やすように、編集者もまた、そういう存在に対しては、ライバル意識を感じるもののようだ。その夜の編集者たちの会話には、そうした空気を感じさせる。〝熱〟があった。全員が仕事に生きがいを見出している。
酒と熱に、心地よく酔った晩だった。