読みたい本がどっさりたまっているのに、なかなか読むことができない。大半は本屋で買ってきたものだが、中には著者や出版社からいただいたものもある。
今、ぱっと目についただけで、小説が四冊、ノンフィクションが三冊あった。以前はこういう状態になると、
「今日は本を読むぞ!」
と、気合を入れて、一日中本を読みまくった。だいたい五冊くらいなら昼頃から夜半までに読み終えられる。
本を読むことが早いのは、たいして自慢にはならない。私にとっては読書は商売の一部であり、プロスポーツ選手が、体の筋肉を自慢するのと同じようなものだ。
「速読術」というのがある。私は興味がない。読書というのは楽しいからするのであって、本当におもしろい本というのは、終わりが近づくのが寂しいものなのだ。本を早く、たくさん読めるからといって、たいしていいことがあるわけではない。
高校二年のとき、私は一年に千冊の本を読んだ。理由は簡単で、勉強をしたくなかったからだ。
学校の机や勉強部屋で、教科書や参考書を読むふりをしながら、本を読んだ。勉強よりははるかにおもしろかった。
本は、読まないより読んだ方がいい。だからといって、本を読んでいないことが生死にかかわるようなケースは、人生においてほとんどない。
私が本を読むのも、仕事が関係しているからでは決してない。たまに、書評や文庫などの解説を書くために、自分では読まないつもりだった本を読むことはあるが、これは例外である。
私はベストセラーであっても、自分が興味のない本は読まない。だいたい世の中の大半の人がそうだろう。
人が読んでいるから、とか、話題になっているから、というのも私には正直なところ、関係がない。ただ、自分が信用している人間(読書に関して)が、おもしろい! といえば、読んでみようという気になる。ただし苦手なジャンル、たとえば恋愛小説などは、パスである。
考えてみると、小説家というのは奇妙な商売だ。医者や技術者、あるいは農業とちがい、世の中に、あってもなくてもまるで困らない商売なのである。
だから気楽だ、ともいえる。少なくとも、私が小説を書くことによって、破産する人もいないし、環境が汚染されるわけでもない。
まあ、本を発行することは、紙の材料として森林資源の破壊をしている、といわれれば、それはそうかもしれないが。
読書というのは、一種の習慣である。また、麻雀のような遊びにも似ていて、やりだすと、週に何回かやりたくなり、やらなくなると、まるでやらない。
ただ本を読むという行為に、変に「構え」るようになると難しい。
「本なんていつでも読める。今だって、ほら」
くらいがいいのだ。
「よし、この本を読んで何か、人生に役立つことを学ぶぞ」
だったら、とてもやっていられない。つまらなければ途中でやめてしまえばいい。小説家は、
「あんたの本、つまんなくて最後まで読めなかったよ」
と言われるのが何よりも怖い。たとえ、「純文学」と呼ばれるジャンルの人であっても、その思いは同じだろう。たとえどれほど高尚な内容であっても、読者が「この先を知りたい」と思うような作品でなければ、お金をとって売るのはまちがっている。
ところで、私の本を読む速度を、早いと感じる人がいて、
「それって斜め読みじゃないの」
と訊かれたことがある。斜め読みというのはたぶん、一行一行を読むことなく、さっと読み通すことをいうのだろうが、それでは読んだことにならない。
「ちがうよ」と答え、
「じゃいったいどういう風に読むの?」
と訊かれて考えた。
いったい自分はどういう風に本を読んでいるのだろう。
説明しようとして本を手にもち、わかったのは、「数行を一度に読んでいる」ということだった。もちろん、本の最初のページの一行目からではない。数ページほど読んで、その本の内容や印象がだいたいつかめてきてからだ。二~三行を同時に読んでいるようだ。
これが便利だからこうしなさい、という気はさらさらない。読み方も、ある種の癖のようなものだ。
しかし、こう「夏」になると、家にいて本を読むより、外にでて遊びたくなるよな。