特別企画

京極夏彦×菊地章太氏(東洋大学教授)対談 日本人が愛し続ける〝妖怪〟を語る。

菊地章太(きくち・のりたか) 東洋大学教授
1955年神奈川県生まれ。筑波大学卒業後、フランス・トゥールーズ神学大学高等研究院に留学。
2005年より現職。専門はカトリック神学、比較宗教史。文学博士。09、東洋大学で120年ぶりに妖怪学講義を復活、著書に『妖怪学講義』『妖怪たちのラビリンス』『エクスタシーの神学』『日本人とキリスト教の奇妙な関係』『奇跡の泉へ』『魔女とほうきと黒い猫』など多数。

古くから親しまれてきた妖怪は困難を笑い飛ばす庶民の知恵から生まれた。

菊地 日本人はとても古い時代から妖怪を愛してきました。日本人には不可思議なものを求める心性、感性があります。今、世間では「妖怪ウオッチ」が爆発的なブームを引き起こしたと言われているようです。

京極 「妖怪ウオッチ」ではありますが、「妖怪ブーム」ではありませんよね。

菊地 「ブーム」とは一過性のものですからね。

京極 ええ。ぼくは一貫して「妖怪ブームなんてない」と言っているんです。一九九七年、水木しげるさんや荒俣宏さんたちと『怪』という妖怪専門誌を創刊しました。当時も「妖怪ブームですね」とよく言われました。その後も定期的に言われるんですね。一過性のブームがそんなに長く続くわけはないし、断続的なものならこの二〇年の間に一〇回以上起きていることになる。そんなはずはないですね。だから大衆文化は常に一定量「妖怪的」なものを抱えていて、何か目新しいプレゼンテーションがされるたびに反応してるだけなのではないでしょうか。

菊地 日本人がよく知っている古い妖怪やお化けを残しながら、ゲームやアニメのキャラクターをどんどん新しくしていく。いわば妖怪という古いキャラクターを〝再起用〟〝再雇用〟しているのだと思います。

京極 そうですね。「妖怪ウォッチ」もまた通俗的妖怪概念の現段階での集大成であり、それを上手に利用した作品として位置づけられます。「ムリカベ」はもちろん「ぬり壁」のパロディですが、パロディとは「みんな知っている」ことが前提となる技法ですね。この場合、対象となる子どもたちではなく、その保護者が「知っているだろう」というところを狙ったのが戦略的に成功した点だと思います。パロディは江戸時代から続くお化け文化のスタイルですし、王道のテクニックです。
「妖怪ウォッチ」ブームのさなか、ある妖怪関係者が「ピカチュウは死んだ」という名言を吐きました。

菊地 本当にそのとおり。

京極 確かに、ジバニャンが台頭した一時期、ピカチュウは店頭から消えましたが、いまは帰ってきました。これは「ポケットモンスター」が強かったということもありますが、むしろ「妖怪ウォッチ」の戦略上の問題でしょう。対象となるジェネレーションに亀裂があった。「ポケモン」世代も取り込む施策をとり、さらには「鬼太郎」世界とも融合させるべきだったと思う。ポケモンは妖怪という名前を冠してはいないけれど、モンスターであるし、構造的には妖怪と一緒です。通俗的な妖怪が広く定着した背景には、江戸から続く「版権フリー」構造があったわけで、フリーでなくても、せめて「くまモン」的なあり方は視野に入れるべきだったと思います。ポケモンや鬼太郎世界と接続すれば、遡って過去の妖怪文化とも容易に繋がれる。妖怪は懐かしくなくちゃいけませんから。妖怪を推進する者としては盤石な形にならなかったことは非常に残念ですね。

菊地 パロディや模倣とは、悪いことでは何でもありません。むしろ江戸文化は、パロディによって新しいものをどんどん生み出していきました。ポケモンや鬼太郎をパロディとして取り入れて、アニメやゲームの新しい展開を考える。こういう路線は妖怪の本筋です。

京極 妖怪の背景には「××もどき」「××ぞろえ」「××づくし」という日本独自の文化がありますね。これを外国語で言うと、パロディでありパスティーシュ(フランス語で「模倣」)になってしまう。明治時代の子供たちは、妖怪が沢山出てくる「妖怪すごろく」で遊んでいました。「妖怪ウォッチ」のカードや食玩を集めて喜ぶ今の子どもたちと同じです。

菊地 そうそう。妖怪は一時的なブームどころではなくて、江戸時代どころか中世から古代にまで歴史を遡れます。

未来へ向かう怪獣
過去へ向かう妖怪

菊地 先ほど京極さんが妖怪について「懐かしい」とおっしゃいました。これは重要なキーワードだと思います。今風のチャラチャラした座敷わらしなんていたらかないません。オベベを着たおかっぱ頭の子どもこそが、座敷わらしのあるべき姿です。

京極 妖怪は前近代、反近代的存在であって、昔や故郷を思い起こさせる懐かしい存在です。一方、怪獣は同じモンスターながら正反対。怪獣の背景には明治から続く、近代化・未来志向がある。五四年から映画「ゴジラ」のシリーズが始まり、怪獣ブームに火がつくわけですが。

菊地 六六年にはテレビ放送で「ウルトラマン」シリーズが始まりましたね。

京極 古臭くて懐かしい妖怪と違って、怪獣は近代的な存在です。キングコングって、いわば「神殺し」のお話ですよね。未開の地で神として崇められていたキングコングが、都市において神性を剥奪され、獣として殺される。近代という構図の中で、人間が神を無力化させてしまう。「ウルトラマン」や「ゴジラ」でも、生き物としての怪獣を人間や宇宙人がやっつけてしまうわけで。

菊地 敵は生きている巨大なモンスターだから、人間が殺せてしまう。

京極 でも妖怪は死なない。水木しげるさんは「ゲゲゲの鬼太郎」の歌で「お化けは死なない」と喝破しました。怪獣とは違い、人間は妖怪を物理的に殺せません。怪獣には大砲や光線銃を撃てばいいんだけど。

菊地 近代的な化学兵器どころか、スペシウム光線というSFの未来型兵器で殺してしまう。

京極 お化けに武器で対抗しようとしても、無駄です。

菊地 妖怪は死なないし、神々もまた死なない。

京極 近代の怪獣に対して、妖怪は反近代。怪獣が向いている方向は未来ですが、妖怪が向いている方向は過去なのです。

菊地 なるほど。だから妖怪は懐かしくて愛おしい。妖怪は日本人の文化の古層にまで通底していきます。

京極 怪談実話を研究している人たちは、日本中で旺盛に聞き取りの現地調査をやっています。彼らから話を聞くと、ホテルで寝ているときに自分の上に見知らぬバアサンが乗っかってきたとか、金縛りに遭ったとか、似たような話が沢山あります。
 それと同じ話を、岩手県の遠野で聞きました。柳田國男が『遠野物語』で書いたように、遠野にはそうした伝説が沢山残っています。遠野では、今言った事例は全部座敷わらしの仕業になっちゃうんですよ。

菊地 座敷わらしは悪い妖怪ではありませんから、イタズラをされても人びとは不思議がるだけです。

京極 布団の上に子どもが乗っかってきても全然怖がらない。「『お前、そんなところに乗るんじゃなくて、腰の辺りに乗ってくれ』と頼んでみたけど、腰痛にはあまり効かなかったなあ」なんて言うわけです。同じ現象なのに怖くない。お化けや妖怪ってポジティブなんですよね。
 水木しげるさんは昔から「妖怪一〇〇〇体説」を唱えています。日本に限らず世界中の人々が妖怪的なものを形にしていますが、人間の想像力なんて限界があるから、いくらバリエーションをつけても一〇〇〇以上にはならないだろうと。一文化圏にマックス一〇〇〇種類。
 まあ同じ事象を違う名前や形で表わしていることも多いので、地域性や時代性を取り去って還元論的に考えると、つまるところはひとつになっちゃうから、僕は「妖怪一体説」もアリだなと言ってるんですが。

イスラム教のお化けジンニー

菊地 イスラム教は妖怪を認めていまして、聖典コーランの中には「ジンニー」と呼ばれる妖怪が出てきます。コーランに書かれているのはアッラーの言葉とされているので、イスラム教徒はみんなジンニーの存在を信じています。つまり、すべての妖怪はジンニーの変化形であると。ディズニー映画の『アラジン』に出てくるあのジーニーのことです。

京極 四国の妖怪現象は全部タヌキの仕業、高尾山では全部天狗の仕業だったりします。同じ現象を起こしていると思われる主体が、地域によって異なる。江戸時代の文化人は、そうした事象を蒐集し、統廃合していきました。
「次第高」「高坊主」「見越入道」「伸び上り」―これらはすべて、どんどん背が高くなって人を驚かせるモノです、「全部一緒じゃないか」ということで、江戸の文化人は「見越入道」に統一しちゃった。江戸のお化けキャラはこうして出来上がっているので、数が少ない。黄表紙(絵本)なんかで活躍するのは、「化け猫遊女」「ろくろ首」「一つ目小僧」みたいな定番お化けだけです。
 一方、民俗学の手法というのはまったく逆です。柳田國男は全国の情報提供者から民族事例を蒐集しましたが、情報は名称別にカード分類されていくので、名前が違うえば別モノとされてしまうんです。

菊地 似たような妖怪を統合するのではなく、「妖怪名彙」(妖怪や現象の名称)をどんどんバラして分解していった。

京極 水木しげるさんはその民俗学の手法を援用したんです。江戸時代に統合された化け物は、妖怪となった際に分裂せざるを得なかった。
「鬼太郎」の功績もあって、昭和後期以降、キャラクターとしての妖怪は爆発的に増殖しました。

菊地 それが「ポケモン」(ポケットモンスター)や「デジモン」(デジタルモンスター)に繋がっている。あのキャラクターて、ちょっとずつ形が違うだけですもんね。

京極「これはピカチュウじゃない。ピチューだよ。まだ育っていない子どもじゃないか」みたいな。神様や悪魔、お化けみたいなキャラが描いてあるビックリマンチョコのシールやキン肉マンの超人も同じですね。

菊地 どの時代も子どもたちは似たものを求めていますし、「もどき文化」を楽しみながら育っていきます。

京極 一〇〇〇体の妖怪を楽しむ心性は、コンプリート・シンドローム(完全収集症候群)を刺激します。

菊地 碁盤の目を埋めていくように、すべてのキャラクターを全部そろえ尽して楽しみたい。

京極 妖怪づくし、妖怪ぞろえにして、世界を妖怪で埋め尽くしたい。妖怪だけの世界、箱庭を作るような感覚です。

菊地 妖怪の箱庭を作る作業は、おそらく日本人にとって、とても心地良いものでしょう。

京極 日本の妖怪は、恐怖や不安を楽しむところまで昇華させたものです。一時期「妖怪はまつろわぬ民の怨念」なんてもっともらしく書いてあったわけですが、日本文化は基本的に明るさを好むんだと思います。「水に流す」と言いますが、あれは「なかったことにする」わけじゃないです。いつまでも恨んだりクヨクヨしていても仕方ないから、負の感情はさっさと捨てて、前に進もうと。

菊地 年末になると忘年会をやっちゃう国ですからね。

京極 そうですそうです。「この楽しかった一年を忘れないでいようね!」と考えても良さそうなものなのに、日本人は「今年のことは全部忘れて仕切り直し!」とドンチャン騒ぎする。バカな感じがいいです。

菊地 怨霊の悲しさと怨念だけでは、痩せた世界になってしまいます。パロディとして笑い飛ばすことによって、つらい現実を笑いに変えてしのいでいけるのです。
 最近の宝くじのCMで西島秀俊さんが「よっぽどオカネが好きなんだな」と言うと、GACKTさんが「オレがカネを好きなんじゃない。カネがオレを好きなんだ」と言います。このCMを見ながら妻に「そうか。カネはウチを嫌いなんだね」と言ったら「当たり前じゃないの。だってウチには貧乏神様がずっといらっしゃっるんだから」と言うわけですよ。
 貧乏神のせいでオカネがウチを好きになってくれず、我が家はいつまで経ってもオカネに縁がない。でもそのおかげで、家族みんなで一生懸命働いて元気でいられます。妻と「僕らが元気でいられるのは貧乏神様のおかげだね」と話しながら笑い合いました。

京極 民話にも似た話があります。アニメの「まんが日本昔ばなし」にもなってるんですが、貧乏神が住む家に福の神がやってきて「お前は出て行け」と追い出そうとするわけですが、貧乏なジイサンとバアサンが「馴染みの貧乏神を追い出すのはかわいそうだ」と言うわけです。そこで貧乏神と福の神が相撲を取り、勝ったほうが家に住むことになる。
 貧乏神は相撲が弱いのですが、老夫婦が一生懸命応援したおかげで、うれしくなって相撲に勝ちます。

菊地 福の神は貧乏な家から去り、ジイサンとバアサンは相変わらず貧乏なまま。いい話だなあ。そのまま古典落語ですね。

京極 アニメでは福の神に金歯が入っていて、こんなギラついた悪趣味なヤツとは一緒に暮らしたくないというか(笑)。オカネという概念に人格を与えているという意味では、「カネがオレを好きなんだ」という発想も妖怪的ですね。

菊地 長く使った道具や生き物に霊性や神性が宿るという、付喪神みたいな発想です。

妖怪は
庶民のおもちゃ

京極 福の神って、裕福な家に「お宅はカネ持ちでいいねえ」と寿ぎにやって来るわけで、福の神がやって来たからその家が裕福になるわけではないですし。順序が逆なのです。

菊地 貧しいからこそ「お互い仲良くやっていきましょう」と言って、貧乏神と一緒に仲良く暮らしていく。大変な状況をそうやって笑い飛ばしていく生き方には、慰めもあれば、たくましさや励ましがあります。

京極 「座敷わらしが出て行くと、その家は没落する」と言われるのも、実際の構造はまったく逆です。「座敷わらしが来たおかげで、あの家は幸せになった」なんて話は少ない。人が没落した理由を説明するために、座敷わらしを利用しているわけです。共同体の優しさでもありますよね。

菊地 没落した惨めさについて「座敷わらしが出て行ったんだからしょうがない」と説明し、自分もまわりも納得するのですよね。あきらめることで、心に一つの区切りをつけて前に進む「諦観」は、日本人の心性の一つかもしれません。

京極 水木しげるさんが「妖怪は貧乏人のオモチャ」という名言を宣ったことがあります。妖怪なんて貧乏くさいものをいじくり回さなくたって、カネ持ちには楽しいことはいくらでもある。貧乏人には楽しみが少ないのだから、妖怪くらいは楽しませてくれよと。

菊地 名言だなあ。妖怪がまとう得体の知れないうさんくささ、懐かしいノスタルジーこそ、我々庶民にとっての最大の楽しみですよね。