京極夏彦インタビュー「もしも幽霊を見たら自分の心に注目を」

「不思議」はなぜ怖いのか

私は、妖怪や怪談と深く関わる仕事していますが、「この世には不思議なことなど何ひとつない」と断言しています。

ただ、「幽霊なんかいない」と言っているのではありません。幽霊を見たり感じたりする人はいるでしょう。でも、それは不思議なことではありません。

まず、「不思議」とは何でしょうか。

人は、見聞きしたものを「経験」によって判断し、理解しています。同じ音でも、猫を飼っている人には猫の声に、託児所で働いている人には赤ちゃんの声に、バードウォッチャーには鳥の声に聞こえてしまう。人は、自分の知っていることでものごとを判断し、理解しているのです。

では、まったく聞いたことがない音が聞こえた場合はどうでしょう。道は2つしかありません。「知らない」「わからない」と判断する道か、自分の知っているものに「当てはめ」たり「引き寄せ」たりして理解しようとする道です。人は、わからないと不安になるもの。ですから、無理やり知っているものに結びつけようとしがちです。しかし、それではうまくいかないことも多いでしょう。「夜中に山の中で赤ちゃんの声がした」と解釈した場合、「そんなバカな」ということになってしまいます。これが「不思議」の正体です。

「謎」とは知らないこと、「不思議」とは間違った解釈のことなのです。人間は、宇宙のすべてを知っているわけではありませんから、「謎」は無数にあるでしょう。でも無知を認めず、「いいや知っている」と思うからこそ、「不思議」は生まれます。知らないことは「分からない」とするのが、科学的にも正しい態度です。「すべて解明できている」という傲慢な気持ちが、かえって「不思議」を生み出しているともいえます。

「幽霊が見える理由」

幽霊も、そうした解釈のひとつです。ただし、幽霊は「間違った」解釈ではありません。

何かを幽霊だと解釈する場合、それが「確実に生きていない」ということを示す判断材料が必要です。ですから多くの人は「知っている人」の幽霊を見てしまうことになります。これは、生死がはっきりしているからです。

知らない人の場合は、時代錯誤なコスチュームやありえないシチュエーションなど「生きていない」ことを示す何かが必要になるでしょう。いまやギャグとして使われるだけの幽霊の白装束は、江戸の頃は「生きていない」という記号でした。

私たちの国では「幽霊を見るための文化」が作られ、伝えられているのです。ちなみに、幽霊文化のない国の人は、幽霊を見ることはありません。

「死者の未練は生者が決める」

死後の世界は、生きている人の心の中にあります。死後、自分のことを覚えてくれる人たちがいるということが、生きていくうえでどれだけ大きな励みになるでしょうか。「いなくなったあの人をちゃんと覚えていよう」「受けた恩を忘れないようにしよう」、そんな思いが「霊魂」という概念を生み出したのです。

だから、死んだおばあちゃんに会えて優しい気持ちになれた、懐かしかったというのなら、それでいいんだと思います。「何か」を亡くなったおばあちゃんだと「解釈」した、その「気持ち」を否定してはいけません。

でも、それでつらくなった、怖くなったというなら、少し考えてみてください。幽霊にマイナスの思いを抱いた場合、その理由は必ず、見た人のほうにあるはずだからです。もしかしたら、亡くなった方に対してうしろめたさや罪悪感といった、わだかまりがあるのかもしれません。死者の未練は、生きている人のほうが決めるものなのです。

ですから、怖いと思ったとき、「やっぱり霊なんかいない」と否定することは、何の役にも立ちません。自分の中にある原因に目をつむるだけだからです。亡くなった方に素直にあやまったり、誤解をといてほしいと真摯に祈ったりしたほうがずっといい。死者は必ず許してくれます。それが、供養というものです。

ポジティブに生きるための「装置」

一番いけないのは、「運が悪いのは先祖のたたり」「リストラされて首を吊った人の呪いで会社倒産した」といった受け取り方ですね。これは霊のせいにしているだけ。まさに間違った考え方といえるでしょう。霊という発明は、そんなふうに「使う」ものではありません。

そもそも日本には、個人が個人にたたるといった考え方はあまりありませんでした。柳田國男が「祖霊」と名づけたように、祖先の霊魂はひとまとまりになって私たちを守ってくれていると考えられていたのです。霊魂にしても神様にしても、ポジティブに生きていくための装置として存在しています。そういう素晴らしい文化のなかで、私たちは暮らしているのです。

今回手記を寄せられた方々にとって、「不思議」な体験が健やかに生きていくために必要なものであるのなら、それは恥じることもないし、悩む必要もありません。そうした生き方に文句を言う人がいるのなら、それこそ「野暮」というものです。(談)