作家生活30周年スペシャル対談 完全版
 
大沢在昌×今野敏 作家生活30周年スペシャル対談 本とも(徳間書店)2009年4月号
 
■作家デビュー
 
大沢 今野さんは正式には1979年の何月がデビューなんですか。問題小説の新人賞だよね。『怪物が街にやってくる』。
今野 78年なんですよ。
大沢 78年の何月?
今野 4月24日。
大沢 ということは俺より1年早いんだ。俺は79年で、受賞の知らせを聞いたのはたぶん2月なんだよ。
今野 じゃ今年が30周年ということ? 俺は完全に去年が30周年。
大沢 じぁこの対談、成立しないじゃん(笑)。30年と31年だから。
編集部 (あわてて)年度、ということで。
今野 年度で切るのか(笑)。学年は一緒だよね。
大沢 学年が一緒で、キャリアもほぼ一緒ということだね。「問題小説」の新人賞というのは毎年やってたの?
今野 毎年やってた。
大沢 で、第何回目の受賞者?
今野 4回目。
大沢 選考委員はどなただっけ。
今野 ぼくのときは宇能鴻一郎さんでしょう。それから、なんといっても筒井康隆さん。筒井さんに読んでもらえたのは嬉しかった。あとは陳舜臣さんと菊村到さん。この4人だね。
編集部 大沢さんのときは選考委員は?
大沢 俺は生島治郎さん、海渡英祐さん、藤原審爾さん。
今野 選考委員で、大沢さんに生島さんがいて、俺に筒井さんがいるっていうのはちょっと象徴的なんだよね。
大沢 まあね。でも俺は実は生島さんが選考委員だっていうのはあまり意識していなかった。というのは、いわゆる小説誌の新人賞に初めて投稿したのが77年なんだよね。「オール讀物」の新人賞。“推理”じゃないほうのね。このとき最終候補になって落ちるんだけれども、そのあとは、わりに手当たり次第的なところがあって、次に「小説現代」の新人賞に応募したの。このときは最終にはならずに落っこって、三度目が「小説推理」。もう選考委員がだれかというのをあんまり意識していなくて、要は新人賞だというだけの理由で投稿してた。「小説推理」を出している双葉社は、俺にとっては、「漫画アクション」を出している出版社だというイメージしかなかったのね。
今野 『ルパン三世』だね。
大沢 あと『鳴呼!! 花の応援団』もそうかな。「問題小説」は何回も新人賞をやっているからある程度、手順みたいなものが固まってたわけでしょう。候補になりましたという通知とか来たわけ?
今野 来てた。ちゃんと一次選考の発表があって、そのあと選考会の通知があって、その日は電話のそばにいてくださいという知らせがあった。
大沢 「オール讀物」のときはやっぱり、前もって経歴とか写真とか送れっていうのが広報のほうから来たんだけど、「小説推理」のときは第1回で、何にもそういうことがわかんないわけ。何の通知もないんだよ。
 投稿してちょっとして親父が死んで、葬式とかやって、四十九日が明けて、おふくろが温泉へ行きたいっていうから二人で旅行に行って。四国の温泉。それで、名古屋の実家に留守番を頼んでて、「変わったことありませんか」って電話をしたら、「なんか東京の出版社から電話がありました」って言うわけよ。ああ、最終候補に残ったという通知なんだなと思って、「電話をくださいって言ってます」って言うんで電話したわけだよ。こっちは頭から、最終候補の通知だと思っているから、何人残りましたかって言ったら、「いや、大沢さん一人です」って言われて、あれ、話がおかしいなと思ってよくよく聞いたら「あなた受賞者です」って言われて……何の通知もなくいきなりかよと思って、すごいびっくりした覚えがあるのね。
今野 俺は初めての応募だったのよ。書いたきっかけというのが、山下洋輔トリオというジャズのバンドがあって、そこでやっていた森山威男さんというドラマーが好きだったんだけど、脱退しちゃったの、俺が大学1年生のとき。たぶん1975年。森山さんが辞めたというのがショックで、彼を主人公に小説を書こうと思い立った。
大沢 当時、山下洋輔トリオの話が多かったじゃない。
今野 そうそう。
大沢 「面白半分」の全盛期。
今野 全盛期だよね、全冷中(全日本冷し中華愛好会)なんかやって、あの連中が遊んでたころで……。
大沢 当然、付き合いはなかったわけでしょう。
今野 全くない。
大沢 なら学生として憧れていたと。
今野 そうそう。ライブを観にいってただけ。それで書いて友達に読ませたら、けっこう面白いじゃんという話になったんで……。枚数がそのとき30枚ぐらいだったの。それを規定の50枚かなんかに書き直して……。
大沢 初めて書いた小説じゃないでしょ?
今野 初めてではない。高校のときとかは適当に書いてたんだけど。でも、ちゃんと人に読んでもらおうと思って、つまり応募できるような形で書いたっていうのは初めて。選考委員に筒井さんがいるっていうのはやっぱり大きかった。
大沢 それで受賞しちゃうんだ。
今野 だから受賞したあとは大変だった。依頼がきたら全部書かなきゃいけなかったんで。でもそれは、いいトレーニングになったなと思っているのね。
大沢 最初に当然、「問題小説」に書くよね。
今野 書いた。
大沢 ボツとか食らった?
今野 いや、そのまんま。ちょっと書き直しはあったんだけど、ほぼそのまんま載っけてもらっている。
大沢 そのときは大学生?
今野 大学生。4年だったね。
大沢 そのまま小説家一本でいこうとかってなぜ考えなかったの?
今野 いや、これがすごい話で。受かりましたって電話くれた徳間書店の編集者さんに、受賞式のときに「うちの新人賞じゃ食えませんから、就職はなさったほうがいいですよ」って言われたんだよ(笑)。じゃ就職しようと思って。でも3年働けばいいやと思って。3年たったら辞めようと決めてたんだよね。
 
今野敏『怪物が街にやってくる』 大沢在昌『感傷の街角』
 
■悲しき原稿料
 
大沢 変な話だけど、受賞第一作の原稿料とかいくらもらったか覚えてる?
今野 ぜんぜん覚えてないなあ。
大沢 俺は強烈に印象があるのよ。「小説推理」の新人賞もあるし。新人賞というのは賞金だから、原稿料をもらわないじゃん。受賞第一作というのを2〜3ヵ月ぐらいして書いて、1回ボツ食らってもう1本、受賞作『感傷の街角』と同じ佐久間公という主人公をシリーズにして80枚書いたんだけど、ようやく掲載がオーケーになって。『フィナーレの破片』という短篇なんだけど、それをもっていって、2ヵ月後ぐらいに原稿料が振り込みになった。
 耳学問だけはあって、70年代に梶山季之さんが編集している「噂」っていう文壇雑誌を読んでたのよ。作家がつくる文壇雑誌で、下世話だけど下品じゃないみたいな。いろんな作家のいろんなエピソードを集めてあって、そこに原稿料の話だって出てくるわけね。たとえば、五木(寛之)さんと生島さんが「ああ難しい、日本のハードボイルド」なんていうテーマで対談してて、すごく面白かったんだけど、その中にも原稿料の話というのがあって、過去、原稿料で最高額はだれがいくらもらったのかという。
 そこで、昭和28年だか29年に、徳川夢声が、「ぼくは1枚1万円以下じゃ書かんよ」って言ったというエピソードが紹介されてたの。昭和28年の1万円じゃとんでもない金額じゃない。だって一万円札がない時代だからさ。おそらく、俺がデビューした1979年の貨幣価値で考えても、4分の1世紀ぐらい経過しているわけだからさ。そうすると、要するに25年後のぺーぺーの原稿料が25年前の超一流作家の原稿料と同額であっても不思議ではない、ぐらいのことは思うじゃない、物価の変動からいうとさ。要するに25年前の社長の給料が、25年後の新入社員の初任給と同じようなもんだみたいな発想だよ。でも1万円じゃもらいすぎだろうと思って、5000円ぐらいかななんて、トラタヌ(取らぬ狸の皮算用)しているわけさ。80枚書いたら40万円じゃん。40万あれば、まだ若いし、2ヵ月ぐらい食えるかななんて思って。そしたら銀行から電話がかってきて、東京の出版社から振り込みがありましたって。10万円ですって言うから、おい、一ケタ間違ってませんかって聞いた覚えあるもんね(笑)。
今野 俺は憶えてない。でも、10万円ということはなかったな。20万円前後だったと思うよ。
大沢 1枚1500円で、80枚書いて12万で、源泉徴収引かれて10万8000円になるじゃない。これは食えねぇやと思ったよね、そのとき。
 もちろん双葉社の名誉のために付け加えれば、その後、原稿料がどんどん上がっていくんだけど。俺の場合は結局、新聞社に就職が決まっていたのに、断って、筆一本でいこうと決めて……。
今野 その度胸がすごいよね。
大沢 度胸というか、あんまり何にも考えてなかったよね。だからむしろショックだったのは、翌年。81年に書き下ろしで『標的走路』っていう初めての長編を出すんだけど、いわゆる世は新書戦争が始まっていて、4ヵ月ぐらいかかって書いたのかな。やっぱり初版1万2000部、ノベルスで定価600円あったかどうかぐらいだよね。売れれば、印税が入って、重版もあるから何とかなると思った。でも売れるどころか、本屋に行っても並んでもいないという状況だからさ、さすがにこれはちょっと大変だなと思ったね。ただ、今野さんもそうだったと思うけど、80年前後っていうのは、いわゆる各社が新書を一斉に始めて、ラインナップを揃えるために、新人に書き下ろしの注文が多かったんだよね。
今野 あれは助かったね。だから今の新人はすごい大変だと思うんだけど、俺たちは仕事があったんだよね、頑張れば。
大沢 大変なのか。今の新人は(量を)書かない人もいるから何とも言えないんだけど、いわゆるプログラム・ピクチャーのように、3ヵ月とかに1冊ぐらい書き下ろしの注文をこなしていけば、食っていくことはできた。
今野 できたできた。
大沢 しかも、今と違って当時は初版の部数が、最初こそ1万部とか1万2000部だったけど、やっていくうちに、2万部ぐらいは新人でもつくってくれる時代だったから。そういう意味ではありがたかったね。
 ノベルスの初版が、俺はずっと2万5000部だったんだけど、カッパ・ノベルス(光文社)だけは3万部だったんだよね。最低の初版部数は3万部ですって言われた。それだけうちはのれんがあって、販売力があるということだったんだとは思うんだけどね。それがすごく記憶に残っている。
今野 俺カッパだけはやったことないな。ノン・ノベル(祥伝社)とか、メインは今でもそうなんだけど講談社なんだ。あと徳間も出したけど、カッパだけはやったことなかったなあ。
大沢 俺は、ノベルスが最初のころずっと多くて、最初は双葉社で、たぶん次に出したのがトクマ・ノベルスだと思うんだよね。『死角形の遺産』。これを書き下ろしでやって。その次は講談社ノベルスの『野獣駆けろ』だったかな。その前に太陽企画出版というところがSUNノベルスというのを出してて『ダブル・トラップ』というのを『標的走路』の次に出した。これは編プロがノベルスが儲かりそうだっていうんで、小さな出版社と組んで始めたシリーズで、そこで2冊目を出した。3冊目が『死角形の遺産』。
今野 俺たちはノベルスで育ったという気はするな。
大沢 そう。ノベルスで食わせてもらって……。ただ、一方でノベルスをずっと出し続けていることに対する閉塞感みたいなものがあった。それを感じさせたのが81年に出てくる北方謙三さんなんだよね。彼は『弔鐘はるかなり』というハードカバーでポンと出てきて、サクサクッと吉川英治文学新人賞とか日本推理作家協会賞を受賞したんだけど、ことごとくハードカバーだったんだよね。その当時、ノベルスは埋没してしまう、ハードカバーは残るというイメージがあって、俺もハードカバーを出さなきゃいけないなというふうに思ったんだよね。今野さんは最初のハードカバーっていつ頃?
今野 俺94年。
大沢 ずいぶんあとだなあ。
今野 完全に俺は出版界から、「ノベルス書き」だとレッテルを貼られそうになったのよ。半分貼られてた。要するにノベルスでシリーズものをいっぱいもってたし、さっきいったプログラム・ピクチャーみたいに、それで回して食ってた。これじゃダメだなと思ったんだけど、抜け出せないの。
大沢 そうだね。食っていくためには数をこなさなきゃいかんし、といって数をこなしているとハードカバーで勝負できるようなものを書く精神的な余裕がないという。たぶん、同じ境遇にそういう人たちがいっぱいいて、結局、抜け出せないままできた人もたくさんいると思う。逆にいえばノベルスの作家の中でスターになった人、赤川次郎さんであったり、あるいは西村京太郎さんであったり。その前に、いわゆるハードアクション系がはやったから、勝目梓さんとかね。そういう人たちは別格だし、べつにそれで構わないという感覚だったんだろうけど、われわれはひと世代あとだから、そのままいくわけはないと思っていて、やはりハードカバーを出さなきゃいかんなと。
 でも、ハードカバーを出して何の意味があるんだということを、正直、あんまり考えてなかったのね。つまりハードカバーが文学賞の対象になると言われたって、自分の書いたものが文学賞の対象になるなんていうことは夢にも思わないわけだよ。そこまで評価されるとも思わないしさ。
今野 夢には思っているんだけどね。
大沢 まあ、そうなんだけど。実際はハードカバーを出しても、一度も文学賞の候補にならなかったからね。初めて候補になったのがノベルスの『新宿鮫』だからすごく皮肉な話なんだけどさ。そういうことはあったな。
 俺は初めてのハードカバーは、角川書店から出した『夏からの長い旅』。
編集部 8作目ですね。これは85年。今野さんの最初のハードカバー『蓬莱』は62冊目です。
今野 かなり違うな。
大沢 わりに早く俺はそこから抜け出ようとした。ただ売れなかったら一緒でさ、ハードカバーだと6000部とか7000部が当たり前でしょう。
今野 そうそう。『蓬莱』もたぶんそんなもんだったと思うな。
大沢 『蓬莱』のときはすごく周りが騒いだんでよく記憶に残っている。俺も『新宿鮫』を書いてたし、評論家の人たちが『蓬莱』で今野敏は変わるということを言っていて、もちろん俺も『蓬莱』を読んですごく興奮した覚えがある。
今野 帯の推薦文を書いてくれたんだよね、あのとき。
大沢 たしかに面白いと思って。でも、ここから来るかなと思ってからがまた長かったなあ。10年かかったな、さらにそこから。
今野 なかなか飛び立てないもんでね。ただやっぱり、ノベルス作家から抜け出そうというあがきはそこから始まったんです、本気で。
大沢 94年って、デビューしてもう16年たっているわけだからな。
今野 そこからあがきが始まって、ノベルスで食いつつ、その蓄えでハードカバーを書くみたいな生活に入っていったんだよな。
 
大沢在昌『夏からの長い旅』 今野敏『蓬莱』
 
■第一印象は「真面目」「偉そう」
 
大沢 今野さんとよくしゃべるようになったきっかけは、(日本)冒険作家クラブかな?
今野 冒険作家クラブに誘われたことだよね。
大沢 冒険作家クラブの旗あげは、たぶん82年とか83年だったような気がするんだけど、もともと発起人が13人いて、作家では北方さん、それから船戸(与一)のおっちゃん、志水(辰夫)のお父ちゃん、伴野朗さん、田中光二さんとか……。単なる飲み会仲間だったんだけど、それを増やそうという話になって。そのときに今野敏という名前はずっと俺の中にあったんだ。SFプラス、アクション系の仕事をする作家という。同級生だというのは、一緒になってからわかったかな。どこで会って声けたか憶えてない。電話かな。
今野 電話だったね。こういう趣旨なんで参加しませんかという話だったんで、即参加の返事をして。
編集部 今野さんの第一印象は。
大沢 真面目な人だなというイメージがあった。何より驚いたのは、当時、彼は独身なんだけど、仕事場を赤坂のレジデンシャルホテルに持っていて、ネクタイを締めて自宅から通って書くっていうのを聞いたとき。
今野 アタッシェケースでしたよね。
大沢 アタッシェケースにスーツ着て。
編集部 そのときご自宅はどちらでした?
今野 自宅は三軒茶屋。
大沢 何で独りなのに、そんなサラリーマンみたいに通うのかというのがよくわかんなくてさ。
今野 あれは趣味だね。逆にサラリーマン時代にスーツ着てなかったのよ。Gパンだったんで、スーツ着て通ってみたいなというのがあって。
大沢 しかも通勤ラッシュで。
今野 ラッシュでもなかったけど、出かけていく時間は。それに、スーツ着てると外に出るのが楽。誰にでも会えるし。
大沢 作家なんだからジャージ着てたっていいわけじゃない。
今野 いや、当時は気合い入ってたのよ。パーティーあってもすぐ行けるしさ。
大沢 パーティーだってそんなにしょっちゅうあるわけじゃないし、われわれはそのころペーペーだから、そんなに呼ばれてたわけでもないじゃない(笑)。
今野 俺、カジュアルが苦手だったのよ。お洒落じゃなかったんで。決まりきっているんで楽じゃない、スーツ。
大沢 なるほどね。そうかそういう発想が俺の場合、全くなかったから。お洒落っていうのはスーツじゃないだろうっていうのがあって。スーツじゃない格好でどうお洒落をするかっていうことが学生時代からずっとあったからね。スーツを着れば、それは決めるというイメージはあったけど、逆に普段からスーツを着てたら、それは決めることにならないだろうという感覚ではあったなあ。
今野 実は後半、六本木のクラブでグダグダに飲むようになって、ほとんど仕事場に泊まってた。
大沢 俺が六本木のクラブにはまるきっかけをつくったのも実は今野敏なんだよね。俺が銀座の行きつけのクラブを今野さんに紹介して、で、今野さんが六本木の行きつけのクラブを俺に紹介するという格好で、お互い両方とも、銀座・六本木に行くようになったという。
編集部 大沢さんの第一印象は。
今野 偉そうな人だと思った(笑)。だから会ったとき、最初はずっと敬語でしゃべってたんだよ。
大沢 そうそう。同い年なんだから敬語やめろよと言ってもやめないんだよね。
今野 やめられない雰囲気があった(笑)。それに、あっという間に階段を上っていったんで、よけいに敬語をやめられなくて。
「大沢って偉そうになったよね、売れて」って誰かが言ったんだけど「いや、違うよ、あれ昔からだよ」って(笑)。
大沢 よく言われるんだよな、あいつは売れないころから態度がデカくてって(笑)。売れてからも態度が変わらないのは偉いけど、昔から態度がデカかったから、あれ以上態度がデカくなりようがないんだろうなんて言われちゃってさ。
今野 やっぱり雰囲気があるんだよ、敬語を使わせる。
大沢 そんなことはないと思うんだけどなぁ。ただ、冒険作家クラブの第一期の作家って、俺よりみんな年上のわけだよ、謙ちゃんにしても、船戸のおっちゃんにしても、志水のお父ちゃんにしても。西木(正明)さんとかさ。ほとんどみんなタメ口でしゃべってたから。何でかっていうとデビューは俺のほうが早い人がけっこう多くてさ、先輩という感覚なわけさ。実際には先輩とか後輩なんてない世界なんだけど。だって北方さんに初めて会ったときに彼は俺に敬語使ってたからね、「大沢さん」って(笑)。俺のほうがデビュー2年早いし。作家の先輩だっていうことで、本ももう何冊か出てたから。彼が『弔鐘はるかなり』でデビューしたときに、生島さんと集英社の担当者何人かと飯を食って飲みにいったときには、「大沢さんのお作はプロットから……」って(笑)。笑っちゃうよ、今から考えると。
編集部 大沢さんは、生島先生といつもご一緒だったイメージがあって……。
大沢 俺、生島さんの威をかって、北方さんに偉そうにした記憶は全くないけどね。生島さんにすごくかわいがってもらったのは事実だけど、小説の書き方とかは全く教わらなかったよね。小説家としての有りようとか、格好の付け方とかはずいぶん横で見てて学んだけどね。
今野 デビューしたときの選考委員だったからね。
 
■文壇バーの思い出
 
大沢 生島さんは、ものすごく憧れの人だったんだよ。で、『ダブル・トラップ』という2冊目の本が出たときに、自分でも、一生懸命ハードボイルドを書いたという意識があったから、差し上げたいって電話をしたんだよね、勇気を出して。そしたら、じゃ飯でも食おうかって言われて、帝国ホテルへ来いって言われて、天にものぼる心地でさ。ラウンジで待ち合わせて、『ダブル・トラップ』に「生島治郎様」ってサインして渡して。そこで読んで何か言うかなと思っていたら、ペロペロッとめくって「じゃ行くか」とか言われて、すげえがっくりきちゃってさ。
 結局その日は、銀座の寿司屋へ連れていかれて、そのあと「数寄屋橋」「眉」「まり花」っていう、いわゆる文壇バーをひとわたり経験するんだよ。さっき話に出た「噂」という雑誌で文壇バーのことも読んでたから、「数寄屋橋」に行ったあと、じゃ次、行くかって言われたときに、「『眉』ですか」って言ったら、行ったことがあるのかって聞かれて。「いや、そうじゃなくて『噂』でずっと読んでました」って言ったら、「ああ、梶さんがやってたやつだな」って。梶山さんはもう亡くなってたけど、「梶さんはいい人だったな」なんて。
 活字で読んできた世界に自分がいるわけじゃない。めちゃめちゃ興奮したというか、夢がかなったと思ったね。実際行った先で、たとえば眉村卓さんだとか、あのときは吉行淳之介さんもいたんじゃないのかな。紹介されてね。ほんと天にものぼる心地だったよね。
今野 俺も最初、銀座に連れてってくれたのは徳間の編集者だったんだけど。作家はどこかで飲んでるんだろうなというくらいの意識で、文壇バーという意識、全くなかった。
大沢 知識がないもんね。
今野 だけど華やかだったよね、やっぱりね。
大沢 とにかく、キラ星のごとく作家たちがいるわけだよ。森村(誠一)さんがいたり、三好(徹)さんや佐野(洋)さんもいたと思うんだよね。「おう」とか「よう」とか言いながら、「おまえ今月、あそこ(の雑誌)やったか」「まだだ」「あそこは、うるせぇからな」とか、いかにもプロの作家の会話がそこで飛び交っているわけさ。はあ、俺、ほんと夢に見た場所に今ここにいると思ってね。もちろん一言も口なんかきけやしない。「こいつは今度、若手で売り出し中の大沢君だよ」って生島さんに紹介されて、よろしくお願いしますみたいなことを言って、「ああ、そう。よろしくね」なんて言われて……。
 そのとき、俺、今でも憶えているのは眉村卓さんのこと。あの人はすごくいい人だからさ、初対面で、駆け出しの俺でもまともに相手にしてくれた。「あなたはまだ売り出したばかりだからわからないだろうけど、これからあなたが売れるようになると、いろんなところがあなたに原稿を頼みに来る。そうすると、原稿を書く優先順位というものがそのとき問題になってくる。ちょっとだけ先輩のぼくがあなたにアドバイスをさせてください」って言って。数寄屋橋の紙ナプキンに万年筆で「一、勉強」って書いて、「二、名前。三、義理。四、お金」って書いた。この順番に仕事を受けなさいと。一番はお金でもない、名前でもない、勉強になる仕事をやりなさい。二番は名前の売れる仕事、三番は義理のある仕事、お金は最後だって言う。すごく印象に残って、大事に持って帰った。
 それから十何年後に直木賞をもらって、偶然「数寄屋橋」で会ったときに、「眉村さんにあのときに書いていただいたことを、いまだに覚えてます」って言ったら、そしたら、「じゃ、次からは、一番は義理だね。今までいろいろ自分を支えてくれた人たちに恩返しをするんだよ」って言ってもらって……。そういう経験ができただけでもめちゃくちゃ幸運だと思うんだよね。
 俺にとってみれば眉村さんは『ねらわれた学園』の著者だし、自分が読んでた憧れのエポック作家のひとりで、そういう人が生島さんの紹介があったとはいえ、全く見も知らぬ若造のためにそういうことを教えてくれた。そして一つ自分が階段を上ったときに、またじゃ今度はこうだよって言ってくれる。そういう経験っていうのは本当に希有なことだと思うんだよね。
今野 最初だけではなくて、後日談があるのがいいね。
大沢 いわゆる文壇的なものっていうのはほんとに今なくなっちゃっているけど、今野さんと俺は最後の世代。北方さんぐらいまでかな。
「数寄屋橋」と「眉」という二大文壇バーがあって、パーティーが終わると作家はみんなそこに行くわけだよね。で、「おまえ今日どっちから?」「俺は『眉』から」、「じゃ俺は『数寄屋橋』から」「途中どこかで会おうよ」みたいなことを言い合って、売れっ子作家たちが、銀座の街をぞろぞろ動いているわけだよね。
 パーティーのあと「数寄屋橋」とか「眉」に行くと、「おかえりなさい」って言われるんだよね。これがまたちょっとしびれてね。パーティー会場にも、ホステスのお姉さんたちが来てるんだけど、お帰りなさいっていう迎えられ方って、やっぱりすげくカッコいいなと思ってね。きれいなお姉さんがどうこうじゃなくて、自分がそこにいることを認めてもらえたということの喜び。つまり作家の端くれとして、今、俺はこの東京の銀座のすごい人たちが集まる同じ場所にいることを許されてるという感動っていうか、うれしくてうれしくてしょうがなかった。本が出たことよりも、そこに今自分がいることこそが、自分が作家になったという実感を味わえた。
今野 俺も大沢さんほどじゃないけれども、銀座で飲むということはすごく大切だと思ってた。隣の親父が書いたものなんて一般読者は読みたかねぇ、やっぱり銀座で飲んでなんぼだろうと。華やかな話をして、原稿料の話もして、編集者の悪口も言って……。だからそういう雰囲気を大沢さんほどではないけれども味わってたね。
 あるとき編集者に、実はおまえを連れてったのは、笹沢左保の名前で伝票を切ってたって言われてね。いつかは俺の名前で飲みたいと。
大沢 俺も当然、そういうことは多々あったろうと思うんだよ。行って2年目か3年目ぐらいから、「数寄屋橋」は自分の勘定で飲みます、請求書を送ってくださいって言って、月に1回か2回、自腹で飲むようになって……。自分で飲んでるんだからと思いながらも、何だあの若造、ひとりで偉そうにって言われるんじゃないかという緊張感はつねにあったよね。
今野 へぇー。意外だなそれは。
大沢 やっぱり、行っても知らない人がいっぱいいるわけだよ。作家だか編集者だかわかんない。「数寄屋橋」の当時のお姉さんたちはみんな若者に親切で、あの人はだれって聞くと、あれはどこどこっていうところの編集者のだれだれさんよとか、あれは作家のだれだれさんよって言うんだけど、べつにコネをつくりに行ってるわけではないから、紹介されないのに挨拶をしたりとか、そういうことはしなかったんだ。一方で、生意気なやつだと思われるかもしれないなとは思ったよね、挨拶がねえって。
今野 挨拶しにくいでしょ、こっちから。
大沢 そこにいるっていう自分を味わいたいだけで行ってたから、変にさもしいやつだとは思われたくないというのもあったのね。ただ、編集者に連れていかれるときはきっと、目上の作家の名前、それこそ生島さんの名前とかで飲ませてもらっているんだろうと思った。
 そのときは、自分の名前で飲みたいというのはもちろんのことだけど、いつか自分がそういうときに使われる名前になりたいと思った。若い作家を飲ませるときに、今日は大沢さんと飲んだことにしておくかって編集者が思って、伝票が会社で通るっていう、そういう作家になりたいとは思ったね。
今野 それはあるなあ。大沢さんには生島治郎さんというものすごい憧れの人がいて、その人と一緒に行けたっていうのが羨ましい。俺の場合、筒井康隆さんは神戸にいらっしゃったから、なかなかお会いできなくて。やっぱり日本でいちばん好きな作家っていうと、筒井さん。
大沢 俺にとっての生島治郎さんと同じだね。
今野 憧れの作家。最近、初めてじっくり飲んだ。最近だよ(笑)。そうしたら「ぼくはこれからライトノベルを書きますから」って言うから、たいしたもんだな、この人はって(笑)。
大沢 やっぱり自分が憧れて、ファンレターを中学時代に出したような人と一緒に酒を飲んだり、麻雀を打ったり、ゴルフをやったりできる幸運なんていうのは、そんなに何人もの人間に得られるものじゃないわけで。ただ、なぜ自分はこんなに生島さんに可愛がってもらえたのかといったら謎だよね。歳も20以上違うし、息子みたいなもんだと。そういう仏心が働いたのかなとも思うけど、一方で、生島さんの若いころを知る銀座のホステスさんたちに、あの人が若者を連れて歩くなんて考えられないって言われたのね。それぐらいクールでニヒルな人で、若い奴に優しくするとか、全くイメージがないって言われてびっくりしたこともあったけどね。
今野 ぼくはほんとに晩年の生島さんしか知らないんで。
大沢 理事長とかをやられたあとだよね。もう好々爺っぽくなってたよね。
今野 若かったけどな、あの当時でもね。
大沢 生島さんのおかげで、俺はいわゆる昭和ひとケタから上の人たちと、俺は知遇を得たというと大袈裟だけど、やっぱりみんな一人ひとり、すごいオーラがあるんだよな。作家以外の何者でもないなというか、たたずまいというかさ。言うことがひと言ひと言カッコいいしさ。こんなふうに俺なれないなと思ったよ。
今野 なってんじゃないの(笑)。
大沢 いやいや、なってない、貫禄がない。だってもう俺、初めて会ったときの生島さんの年齢を超えてるわけだよ。俺が初めて会ったとき、たぶん生島さんは40代の終わりなんだよね。でもあんな迫力、俺ねぇやって思うもん。
今野 いや、これは自分たちではわからないよ。この間ちらっと聞いたんだけど、若い人が(推理作家協会の)理事会の席に行ったら熱が出るって言ってた。まわりのオーラがすごすぎて。大沢さんとか、宮部(みゆき)さんとか、京極(夏彦)さんとかを見るとすごいことになってたんだと思うよ。
大沢 そうなのか。
今野 だからこれからは、大沢さんはもうやってるんだけど、若いやつを連れて俺たちが飲み歩かなきゃいけないんだよね。
大沢 そうだね。
 
■スピードとクオリティ
 
大沢 何より寂しいなと思うのは、今の若い人たちには、文壇的なものに対する憧れというのはもうないじゃない。流行作家としてカッコいいというイメージで見られたのは、おそらく北方謙三さんが最後かな。やっぱり葉巻をくわえて、クルーザーに乗ったり、オープンカーの隣に愛犬を乗せて走ったりという。ああカッコいい、あれが北方謙三だと。
 今はホームページとか、昔より読者には情報が発信できる状況でありながら、われわれが憧れの存在として今あるかというと、おそらくないだろう。「ああなりてぇ、だから俺も小説家になるんだ」という、そんな動機でも、俺、いいと思うのね。
 学生時代、純文学を志向している文学青年たちに「おまえは何で小説を書くんだ」と言われて、「俺は銀座で、ベンツに、軽井沢だ」って言ったら、「おまえみたいな下劣な、堕落した思想のやつに文学はできねぇ」って言われて、「俺は文学なんか志望してねぇよ」って言い返した覚えがあるんだけど、実際そういうイメージを作家に対して持ってた。銀座で飲んで、ベンツに乗って、軽井沢に別荘を持てるような、そういうのがいちばんカッコいいんだというふうに思っていたのね。
 今の若い人たちが、じゃ小説家という職業に、そういう思いを持っているかというと、おそらく持ってないだろう。それがやっぱり寂しいよね。
今野 何なんだろうね。でも作家にはなりたがるんだよね、みんな。
大沢 贅沢をしたいとか、女にもてたいとか、そういう思想がないんだよね。プロの小説家というのはバリバリ書いて、バリバリ稼いで、バリバリ金を使ってなんぼのもんじゃないのって、俺なんかやっぱり思うんだけど、若い子たちはあんまりそういうことを考えないで、わりに淡々と、学生みたいな暮らしをして、年に1冊、あるいは2年に1冊、細々と本を出して、それで食べていければ幸せですって。
 そういう作家人生を否定はしないけど、むしろそれはエンターテインメントの作家じゃなくて、純文学系の作家が考えることじゃないのかなって俺なんかは思うんだよね。洛陽の紙価を高めるというか、やっぱり何万という読者が新作を待ちわびて、出れば争って買って、で、やっぱりそれがおカネになって自分に戻ってきて、そのおカネでさらに自分が今までにしたことのない経験を積んで、書くものへつなげていくというのが、俺は小説家じゃないかなと思うんだよね。
今野 旅行もしてね、いいものを食って。
大沢 作家という職業はいろんなものを見たり、聞いたり、触れたりする機会が与えられるわけだから。でもそれは、売れて初めてそういう機会があるんで、無名の作家には、世の中なんてどこもドアを開いちゃくれないからね。まずやっぱり名前が世に出ること。名前が世に出るということは何かといったら、やっぱり作品が評価されることだよね。多くの人がその名前を覚えてくれれば、ドアは向こうから開いてくるし、そうなったときに、こういう経験をしてみませんかって言ってくれる人が必ずいて、あるときからもう、見ること聞くこと全部初めてづくめになったりするわけじゃない。すごく幸せだなと思ったね。もしかしたら小説家じゃなきゃ一生、絶対できなかったろうっていうことが、次から次へとできる。やっぱり小説家になってよかったと思ったし、またこういう経験をするためにも、頑張って仕事しなきゃいかんなとも思ったよね。
今野 だから、ただ単に小説を書くというだけではなく、たとえば自分の作品が映像化されたりすると、なんかワンステージ違うことが起こるんだよね。
 俺、カート・ヴォネガット・ジュニアの『猫のゆりかご』の中で好きな言葉があって。「作家たるもの、最高水準の作品を最高スピードで提供するのが務めだろう」という台詞。
大沢 まさにプロの作家らしい言葉だよね。
今野 しばらく座右の銘にしようと思ってたんだけど、途中から諦めた(笑)。
大沢 スピードとクオリティを両立させるというのは大変な作業。でも長いキャリアを持ってやってきた人じゃないと、そういう技術は身につかないよね。
今野 スピードとクオリティって、俺、両立する瞬間があると思ってる。
大沢 あると思う。
今野 小説って書かないとうまくならないんで。いっぱい書いてる人ってやっぱりうまくなるんだよね。
大沢 なる。間違いない。俺、生島さんに言われたのは、同人雑誌とかで何百枚、何千枚書いたって、作家っていうのはカネになる原稿を書かないとうまくならねぇんだよと。逆にいえば、こんな拙いものでカネをもらってしまったっていう後悔が、次の作品をよりよくする原動力にもなるんだということを言われたのが、すごく印象に残っている。あと、麻雀と一緒だと。自分が腐っているときでも、半荘に1回必ずいい配牌がくるときがある。そのとき逃さずあがればいいんだと。あがいてもダメだって言われたね。要は必ず風が吹くときがある。そのときにチャンスを逃すなと。もったいをつけるなということだったんだろうと思うんだよね。
今野 俺なんかいい例で、30年かかって風が吹いてきたんだからさ。
大沢 俺から見てると、『蓬莱』で一瞬風が吹いているのに何やってんだっていう苛立ちを持ったことはあった。
今野 でもあのときだって俺、次に『イコン』をちゃんと書いた。さぼってたわけではないんですよ。
大沢 お互いの30年のうち、俺のほうがたまたま少し早めに世の中に光があたったけど。
今野 かなり早かったけどな(笑)。
大沢 やっぱりすごく気になって、実際、いやなことを言ったこともあるし、ケツをひっぱたいたというか、ボヤボヤするなよという言い方をしたこともあるしね。作品の中身について突っ込んだ会話をした数少ない人だと思うんだ、今野敏という人は。
 
今野敏『イコン』
 
今野 日本推理作家協会賞を受賞したとき「大沢がいないと今の俺がないんです」っていう挨拶をしたんだけど。こっぱずかしいけど、実はホンネだったんだ、あれ。
大沢 あんまりそういうのは言われたくもないんだけどね。
今野 言われるほうもこっぱずかしいだろうけど。ただ、だれか支えてくれる奴がいないとダメだよね、作家って。
大沢 ライバルでもいいと思うんだよ。たとえば俺は北方謙三というのがやっぱり終生のライバルだと思っているんだよね。今は現代ハードボイルドはあまり書かなくなってしまったけど、彼が一躍寵児だったとき、俺はくすぶりまくってて、ハードボイルドを書いても書いてもいつも北方謙三の影っていう印象があった。だけど作家としての資質が違うことはわかっていて、もちろん北方謙三の小説がすごいというのはわかってたけど、でも同じ土俵でないところで俺は勝負できるはずだと思って、焦らず、腐らず書いてた。
 北方さんはそれに対して、俺がたとえば生意気なことを言って、ある部分、突っかかったりするわけだけど、ちゃんと受けてくれて。ライバルとして扱ってくれたのがすごくありがたかった。おまえなんかまだぜんぜん俺に比べればチンピラじゃねぇかよって、やろうと思えばできたと思うのよ。だけど彼はそういうことを一度として口にしなかったし、俺が頑張っているっていうのはもちろんわかってくれて。俺が今野さんに言ったように、グズグズするな、早くこっちへ来いっていう激励をしてくれたよね。俺にとって北方謙三が同時代にいたっていうのは、ものすごく大きな意味を持っていると思うね。
今野 たぶんそれと同じ意味合いだと思うんだよ。俺にとっての大沢さんは。同い年だけど。俺なんかは、じゃあそれを下の世代にやっているかっていうと、ちょっと反省する面があるね。
大沢 下とか上じゃなくて、そういうふうな突っ込んだ会話ができる相手がいるかということだよね。
今野  ああ、そうか。だれかを支えてるのかとか。
 
■焦りと悔しさ
 
編集部 デビューが一緒で、大沢さんのほうが先に注目されたとき、焦りってありましたか。
今野 焦るさ、悔しいし。
大沢 そんなのないわけねぇじゃん。北方謙三なんかさ、歳は上だけど、デビューは俺より2年あとなんだよ。一緒に飲んだりして仲がいいのに、パーティー会場へ行くと、北方謙三の前には名刺持って編集者が行列するわけだよ。俺のところにはだれも来ないわけ。顔知ってる編集者がいて、どうもとか言うと、そっけなく「ああどうも」とか言われて、もうあとは北方さん。目キラキラだし、早く名刺を渡したいですみたいな空気があってさ。ものすごいヒエラルキーだよ、それはね。
今野 パーティーでも感じるし、あと、理事会へ行っても感じるしね、売れないころって。それが辛いんだよ。
大沢 でも悔しかったら売れろっていう話だからさ。俺が気に食わないわけじゃないわけだよ。自分が頑張らなきゃしようがないねぇだろう。悔しくても自分が売れなきゃ何の答えもないわけで、そこですねたり、たとえば妬んだりしてもしようがないということだよね。
今野 だからパーティーに顔を出さなくなったり、理事辞めたりとかって、そういうのはよくない。売れりゃいいし。仕事を続けてさえいれば売れる。たとえ売れなくても、恥じることはないんだよね。
大沢 闘ってればいいんだよ。話したときに、「それはおまえ最初から勝てねぇに決まってるだろう、そういう闘い方じゃあよ」っていう、そういう言葉がどこか言外にこもってくるときあるのね。それがやっぱり作家同士の会話の中でいちばん怖い。売れてなかろうが、賞をもらってなかろうが、ちゃんと闘ってればべつにいいんだよ。だけど、どこかで投げて、楽な仕事を始めたり、カネだけの仕事を始めると、ああもうこいつは俺と闘ってはいないなと思うわけ。そういう人間はだんだん距離が遠くなっていってしまうなと。
 だから今野さんがノベルスを書きまくってたときに、俺がそれをすごく不安に感じて「そんな闘い方はありえねぇぜ。もっとちゃんと闘おうぜ」っていうことを言ったことはある。
今野 彼にそれを言われたことは大きくって、いつかは脱却しようという気持ち、そういうベクトルが生じたんだよね。だって食えてたからね、そっちに流されていってもおかしくなかった。
大沢 ある意味すごく生意気、傲慢なことじゃない。同じように作家としてプロとしてやっている人間に対して、おまえのその闘い方、違うぜなんていうことを偉そうに言う。じゃそういうおまえどうなんだ。あるいは、今はたまたまおまえはいいかもしれないけど、5年、10年たったらどうなっているかわかんねぇじゃないかよって言われたら、まさにそのとおり。だから言った以上は自分も当然、俺もやるし、おまえもやれよみたいなことしかないわけだよね。俺も頑張ってこれからも書くし、今ここで俺がたまたま一歩先に行ったからって、一生これが続くとは思っていない。逆にいえば一歩ずつずっと相手を離していくためには自分も行かなきゃしようがないわけで、自分が立ち止まってたらいつか追いつかれて追い越されちゃうわけで、そんな惨めな思いはしたくないし。
今野 だから作家というのは、相手を励ますということはそれは諸刃の剣で、刃を自分にも突きつけてるのよ。
大沢 偉そうなことを言って、俺はどうなるんだっていうのが常にはね返ってくるからね。だから冒険作家クラブって、そういうところが不思議な組織というか集団でさ。みんなそうなの、船戸与一にしても、志水のお父ちゃんにしても、もちろん北方謙三、逢坂剛、みんな仲がよくて、ポーンポーンとそれぞれみんなブレイクしていく中で……いちばん最初に北方謙三さんがブレイクして、そのあと志水さんとか、船戸のおっちゃんとかきて。どうだって言って、悔しかったらおまえもかかってこいやっていう、すごく男の子なんだよな、そこがな。畜生、売れやがってコノヤロー、賞とりやがってと思ってさ。俺だって負けねぇぞと思うのわかってんだよ、向こうは。だから、悔しかったらかかってこいよと。それは信じてくれてるっていうことなんだと思うのね。それで来なきゃあいつは終わりだと。だから、よくそういう会話はしたよ。あいつはギリギリだった。今回ブレイクしたけど、これギリギリだったな、これ遅れたらあいつヤバかったよねとか。
 で、今野はどうなんだっていう会話はよくした。それは謙ちゃんなんかともしてたし、「今野はどうなんだ」「頑張ってるみたいだけど」「いやあ、どうなんだろうね」と。そういうのも、いないところでもしてるわけだよ。「来ると思うけどな」とか言いながら。とはいっても、お互いが全作品読み合ってるわけじゃないからわかんないわけだよ。それはなんか、そのときの顔つきとか、そういうもので、あ、こいつ闘ってるなって思うわけ。闘ってないやつっていうのは、変な話だけど目がどんどん死んでくんだよ。名前は挙げないけど、すごく一時ワッとなった人がある瞬間に目が死んで、で、次に何書きだしたっていったら、だれかのパクリみたいなものを書きだして、すごくがっかりしたりとか、あの人が何であんなものを書くのと。それはもしかして、こういうのを書けば売れるとか、そういう低次元の発想でだれかの真似をしているんだとしたら、もう、たとえ売れたとしても、終わったなって思っちゃうわけ、われわれは。
編集部 今野さんは、そういうプレッシャーを感じていましたか。
今野 プレッシャーはもちろんあったんだけど、焦ってもしようがないし。あるときから腹くくったっていうのはあるね。
編集部 腹をくくったきっかけになったことってありますか。
今野 俺、『蓬莱』を出せたということが一つ大きくて、これを1冊出して評判がそこそこよかったんだから、次もいける、絶対いつかまた評価してもらえるものが書けるという自信がついた。さっきの眉村さんが書いてくれた話じゃないけれども、カネじゃなくて、もっと上へ行こうよという気持ちがあったんだよね。
大沢 それがなければ、いま今野敏はいないと俺は思う。
今野 そうですね。
 
■書き続けるということ
 
大沢 今野敏にしても大沢在昌にしても、作家の中では、今の日本の出版界では、かなり恵まれたポジションにあるとは思うけど。だけど5年後、10年後なんてまったく何の保証もないからね。一生安泰だなんて一度も思ったことないし。
今野 ないね。
大沢 いわゆる文壇的なヒエラルキーの最高点にいたって、じゃあ北方さんにしても、宮部さんにしても、10年、20年後、現役の作家として認知されているか、本が本屋で売られているかわからない。書き続けることでしかその保証は得られないし、カスみたいなものを書いてたら、どんどん追いやられていくだろうしね。因果な商売だよね。もっと楽にいけると思ってたよ、俺は。たぶん今野さんも、ここ数年の間に立て続けに文学賞とかをとって、かなり変わったんじゃないかな。とる前に思ってたほど楽じゃないって実感していると思うな。
今野 そう。仕事量、増えたんだもん。
大沢 増えるのはうれしい反面、ぜんぜん楽になってないよね。収入はもちろん増えているだろうけど。これがあと30年続くなんていう保証はどこにもないもんな。
今野 ないない。
大沢 むしろこれでまた落っこったりして、不安になることだって考えられるわけだよ。
今野 あり得るよね。だって、年取っていくと、どうしたって執筆量、減るわけじゃない。不安なはずなんだけど。不思議なもんで、俺、東芝EMIに入って辞めるときから、去年、文学賞をとるときまで、不安になったことってないんだね。まあいつかは売れるだろう(笑)みたいな。
大沢 でもそういうもんだよ。上ってるっていう意識を持っているときは不安がないんだよ。
編集部 売れてなくても?
大沢 うん。売れてないからこそ上れると思っているわけ。もちろん消えてしまうかもしれないっていう不安を感じることはあるけど、落ちることはないんだよ。だって自分の今いる場所は最低なんだから。ところが上り始めると落ちる不安が生まれるんだよ。だから今野さんは落ちる不安をこれから感じると思うんだ。
編集部 30年間の中で不安になったことはありましたか。
大沢 あったよ、もちろん。いちばん思ったのは、1989年に28冊目の作品になる『氷の森』をハードカバーで世に問うたとき。自分に書けるそのとき最良のものだという思いがあった。そのときの願いは、もらえなくていいから何かの文学賞の候補にならないかとか、あるいはアンケートなりコンテストで上位に入ることであったりとか、本が売れて重版することであったりとかあったんだけど。ことごとくその願いが外れたときに、俺が目指した最良のものというのは、この世の中には何の意味もないことなのかと。俺はそのとき33歳だったけど、残りの人生、まだそうとう長いわけだよね。50年近くあるとして、残り全部ずっと作家ではやっていけないかもしれないと思った。いちばん怖いのはそこだよね。
 売れてても売れてなくてもそれなりに注文があって、生涯作家としてやっていけるなら、まだそれは幸せだよ。だけど、注文がなくなった時点で自分がいくら作家でございと言ったところで、世の中から、おまえはもう引退したも同然だと言われたら、それはそれでおしまいになっちゃうわけだから。存在を無視されてしまうわけだから。そうなるんじゃないかという気持ちは持ったよな。
今野 俺は『蓬莱』よりも『ビート』だったんだよね。『ビート』はものすごい手応えがあったし、これ以上のものは書けないと思った。そうしたら、大沢さんが言ったみたいに、評価もあまりされなかったし、あまり売れもしなかった。
 でも大沢さんも『氷の森』を書いたから『新宿鮫』が書けたんだと思うんだよ。俺も『ビート』を書いたことによって、『隠蔽捜査』も書けた。ものすごく肩の力が抜けたんだよ。正直『隠蔽捜査』書いたときは、悪い言葉で言うと、やっつけ仕事だった、ほとんど。でもその前に『ビート』を書いてるから、やっつけ仕事でもクオリティが保証できたんだよね。
大沢 いい感じで力が抜けるっていうのかな。たとえば、今野さんはゴルフやらないけど、飛ばそうと思って力んでひっぱたいたからってボールが飛ぶわけじゃないと。なにげなく抜いたスイングでバーンと打ったらそれがすごく飛ぶっていうケースがあって、そういうことなんじゃないのかな。空手なんかでもあると思うんだよね。勝負したものがうまくいかなくて、ある意味すねて、腐って、でも食っていかなければいけないから次もしようがねぇ、やってやるかと思ってやったときに、いい感じで力が抜けた。
今野 そういうのあるかもしれない。
大沢 ただこれは自分で狙ってできることじゃないわけさ。
今野 ほんとにそうなのね。
大沢 演出なんかできないしな。
今野 これは怖いね。怖いというか困ったもんでさ。
 
大沢在昌『氷の森』 今野敏『ビート』
 
大沢 今野さんにしてもポッと出て売れたわけじゃないから。その間の長い積み重ねがある。俺は下積みが尊いと言いたいわけではないの。下積みなんてしないで済むならだれもすることはないよ。ただ、長い間そういう経験を積んだ人ってやっぱり強いよ。だから、ちょっとやそっとの波でも流されないし、ちょっとよくなってすぐ消えてしまうということもないし。腰が据わってるっていうのかな。長年売れないできたんだから、また一瞬、波がひいたからって、もうダメだ終わったということもあり得ない。俺もよく思うよ、売れなくなったって昔の売れなかったことに比べれば、ぜんぜん売れてんじゃねぇかよと。昔のことを考えれば怖かねぇやと思うことがあってね。
今野 やっぱり長年やってきたトレーニングなんだよ。最低限、アベレージの仕事はできるという自信があるんで、じゃそれよりもちょっと足してみようじゃないかとか、そういう工夫ができて……。俺たちって職人だからさ、ある意味で。そういう技術がなきゃダメなんだよね。それは、長年やってきたからその技術が培われてきてる。
大沢 技術は長年やることでしか身につかない。
今野 一生懸命書くこと。書き続けなければダメで、量はやっぱり質に転化するよ、絶対。
大沢 ある量は書かないと絶対ダメだろうな。だから量を書かないでうまくなろうとか、技術を身につけようというのは難しいと思う。
今野 ないと思う。あり得ない。
大沢 早い話が、締め切り来ちゃった、書くことは何にもない。でも何か書かないとまずいぜっていうときに、机の前でウンウン唸って、10時間たったらできてましたよ、っていうことっていくらでもあるんだ、プロの作家ってさ。この間もできたから今度もできるだろうっていうこともあるし(笑)。それの繰り返しだったりするんだよ。そうするとそれが自信になるわけさ、何とかなるぜと。若いうちは、どうしようどうしようということばっかり考えて、パニックっちゃうから書けなくもなるし、逆に言うと、このアイディアは今書いちゃダメだろうとか、もったいぶるというか温存したがる。そんなものどんどん使っちまえと。空っぽだ、スカだと思っても必ず探しゃあるからよっていうね。
今野 思いついたアイディアはどんどん使ったほうが、次も出てくるよね。
大沢 絶対使ったほうがいい。
今野 温存しているとそこで止まっちゃうんだよね。
大沢 これは勝負作のためにとっておこうなんて、そんなチャンスは二度とこないよと(笑)。つねに勝負作だと思うしかないのね。でもこれ書いちゃったら次が……って、そんなもの出てこなきゃ終わりだよって。出てくるんだよ。出てこなかったらどうするんですかって、それは消えるしかないだろう。だって今書かなくたってどのみちそれしかなかったら、消えるんだからっていう話だからさ。消えていく人間がこんなに多い世界ないんだから。だれも消えたいと思ってないよ。出てきたときはみんな意気揚々として、俺はもう世の中を引っ張っていくんだぐらいのつもりでいるわけじゃない。小説家の、そういうところがいちばん面白いかもね。だから毎日なんてのはすごくつまんない。机に向かってごそごそやっているだけの日常なんだけど、5年間とか10年間とか20年間、ましてやわれわれみたいに30年というスパンで見たときに、やってることは変わらないんだけど、気がつくと、登ったり下りたり、転げたりというのがその30年の中にあって、全部それが今の自分をつくっていることにつながっているっていうのはあるよね。
今野 噺家さんの話なんだけど、「あの噺家は変わらないね」「あの人の芸は変わらないね」って言われる人は伸びてる人なんだって。「あれはダメになったねっ」ていう人は、それは停滞している人なんだって。だから伸びてないと、俺たちは下手になったと言われるんだよ。
大沢 攻撃は最大の防御みたいなことだな。
今野 でも、毎日書いてれば絶対うまくなると思う。そういう蓄積がないと、結局、消えていくんだよ。
大沢 あの人は今、みたいになっちゃうからな。何十年かして、評論家がこの対談を見て、今野敏というのはあの今野敏だけど、対談相手の偉そうなことを言っている大沢在昌って、当時は売れたらしいけど、今は何も残ってないな、なんていう可能性だってあるんだからな(笑)。
今野 俺、昔よく抱いていたイメージがあって。焼鳥屋の隅っこで「俺昔さ、売れててさ」「いいから帰ってよ、おっさん」みたいなことを言われて、地面に倒れるんですよ。雨が降ってるの。そこをカッカッカッと歩いてくる奴がいて、ふっと見ると大沢なんだよ、それが(笑)。
 
■あっという間の30年
 
編集部 お二人にとって、30年は長かったですか、短かったですか。
大沢 あっという間だよ。
今野 俺もあっという間だな。
大沢 とくに変な話だけど、『新宿鮫』書いてからのほうが、もうキャリアの中で長くなったわけだよね。34歳で『新宿鮫』書いてもう19年になるわけだ。だけど、書いてからのほうが速いよ。あっという間だった。それはさっきも言ったように、未体験のこと、初めて開いたドアがいっぱいあったし、幸せだったから、あっという間に過ぎていったということもあるんだけど、『新宿鮫』を書いてからの19年間なんていうのは、ほんとに瞬足で過ぎてったような気がするね。あれから50冊近く書いてるけど、もうただひたすら格闘して、書いて書いて書いて、で、飲んで飲んで、遊んで、書く、飲む遊ぶ、書く飲む遊ぶ……まさに『かくカク遊ぶ、書く遊ぶ』(エッセイ集のタイトル)。
 
大沢在昌『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』
 
今野 俺も同じ。ただ俺は、もう一つ空手という要素があるんで、これもけっこう忙しいんだ。空手をやって、小説書いて、飲んで、空手やって小説書いて……まったく同じ。こんな感じで大沢さんは19年間きてたんだろうと感じてる。
大沢 倒れるときは前のめりという世界だよな。
今野 倒れました、去年(笑)。
大沢 今野さんに言ったんだけど、ピークを50代で迎えちゃうのってどこかやっぱり……俺はまだ30代だったから、むちゃくちゃ大変だったけどまだ体力はあったんだよ。とくに今野さんは武道をやっているから体力には自信があったんだろうけど、仕事で疲れるっていうのは、肉体が単に疲れるのとは違う消耗があって、それが内臓とかにきちゃうんだよね。結果的には取り返しがつかないような病気にならずに済んだということは、いい教訓になったろうと思うんだ。
今野 だからペースがつかめるようになったね。ここまでいくともうダメなんだというのがわかったんで。
大沢 取り返しがつかないような病気にならずに教訓を得られたということは、彼にとってすごく大きな糧になったと思うんだよね。
今野 やっぱり作家って運というのが非常について回って、俺はそういうところの運がけっこう強いんだと思う。
 
大沢在昌『新宿鮫』 今野敏『隠蔽捜査』
 
大沢 (編集者に)もう十分語ってないか?
今野 これ以上、何が聞きたいんだ(笑)。
編集部 (あわてて)じゃあ50年目に向けての目標とか。あと20年。
今野 あと20年、同じでしょう。だって大沢さんがあっという間に過ぎたっていうんだから。
大沢 あっという間だよ。考えたら、生きてるかどうかだけだよ。それとも生き残ってるかということもあるだろうけど。
今野 その二つだね。人間として生きてるか、作家として生き残ってるか。
編集部 今まで作家を辞めたいと思ったことありますか。
今野 今まではないね、1回も。この先もたぶんないと思うけど。
大沢 辞めたいと思ったことはないけど、疲れるぜって思ったことはある。
今野 それはある。
大沢 辞めても何もできないからね。こんな潰しがきかない商売ないからさ。死ぬほどお金があったら辞めたいと思うかもしれない。でもあるかないかはともかく、俺は稼いだカネを片っ端から使う人生だからさ、辞められないよ。ものの見事に流し込んでるからね、いろんなもんにね。蓄財とかは興味ないしな。
今野 俺、道場付きの家を建てたいんですよ。これは今しかできないと。
大沢 それも金を使うということだからね、結局。道場付きの家を建てたって、そこは金生まないじゃん。使うばかりなんだから。
今野 だから稼ぐしかない。
大沢 貯金して、それでまあ、爪に火を点せば10年は何とか何もしなくて生きていけるだろうなんて思ったらダメだと思う。私は夜の街で、ゴルフ場に、別荘に、全部流してきました、それはもう(笑)。
今野 正しい生き方だけどね。だってみんなそうやってたんだもん、クルーザー買ったりしてさ。
大沢 それでだれからも文句言われなかったから、幸せな人生だと思うよ。
編集部 最後に、エールの交換をしていただければ。
今野 エールの交換というほどではなくて……これからもよろしくと。
大沢 お互い闘ってね、いきましょう。
今野 ものすごく密度の濃いお話をうかがうことができました。
大沢 30年も浮いたり沈んだりやってんだから、おいしい話はごろごろあるさ(笑)。
 
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