作家生活30周年スペシャル対談 前編
 
大沢在昌×今野敏 作家生活30周年スペシャル対談 本とも(徳間書店)2009年4月号
 
■作家デビュー
 
大沢 今野さんは正式には1979年の何月がデビューなんですか。問題小説の新人賞だよね。『怪物が街にやってくる』。
今野 78年なんですよ。
大沢 78年の何月?
今野 4月24日。
大沢 ということは俺より1年早いんだ。俺は79年で、受賞の知らせを聞いたのはたぶん2月なんだよ。
今野 じゃ今年が30周年ということ? 俺は完全に去年が30周年。
大沢 じぁこの対談、成立しないじゃん(笑)。30年と31年だから。
編集部 (あわてて)年度、ということで。
今野 年度で切るのか(笑)。学年は一緒だよね。
大沢 学年が一緒で、キャリアもほぼ一緒ということだね。「問題小説」の新人賞というのは毎年やってたの?
今野 毎年やってた。
大沢 で、第何回目の受賞者?
今野 4回目。
大沢 選考委員はどなただっけ。
今野 ぼくのときは宇能鴻一郎さんでしょう。それから、なんといっても筒井康隆さん。筒井さんに読んでもらえたのは嬉しかった。あとは陳舜臣さんと菊村到さん。この4人だね。
編集部 大沢さんのときは選考委員は?
大沢 俺は生島治郎さん、海渡英祐さん、藤原審爾さん。
今野 選考委員で、大沢さんに生島さんがいて、俺に筒井さんがいるっていうのはちょっと象徴的なんだよね。
大沢 まあね。でも俺は実は生島さんが選考委員だっていうのはあまり意識していなかった。というのは、いわゆる小説誌の新人賞に初めて投稿したのが77年なんだよね。「オール讀物」の新人賞。“推理”じゃないほうのね。このとき最終候補になって落ちるんだけれども、そのあとは、わりに手当たり次第的なところがあって、次に「小説現代」の新人賞に応募したの。このときは最終にはならずに落っこって、三度目が「小説推理」。もう選考委員がだれかというのをあんまり意識していなくて、要は新人賞だというだけの理由で投稿してた。「小説推理」を出している双葉社は、俺にとっては、「漫画アクション」を出している出版社だというイメージしかなかったのね。
今野 『ルパン三世』だね。
大沢 あと『鳴呼!! 花の応援団』もそうかな。「問題小説」は何回も新人賞をやっているからある程度、手順みたいなものが固まってたわけでしょう。候補になりましたという通知とか来たわけ?
今野 来てた。ちゃんと一次選考の発表があって、そのあと選考会の通知があって、その日は電話のそばにいてくださいという知らせがあった。
大沢 「オール讀物」のときはやっぱり、前もって経歴とか写真とか送れっていうのが広報のほうから来たんだけど、「小説推理」のときは第1回で、何にもそういうことがわかんないわけ。何の通知もないんだよ。
 投稿してちょっとして親父が死んで、葬式とかやって、四十九日が明けて、おふくろが温泉へ行きたいっていうから二人で旅行に行って。四国の温泉。それで、名古屋の実家に留守番を頼んでて、「変わったことありませんか」って電話をしたら、「なんか東京の出版社から電話がありました」って言うわけよ。ああ、最終候補に残ったという通知なんだなと思って、「電話をくださいって言ってます」って言うんで電話したわけだよ。こっちは頭から、最終候補の通知だと思っているから、何人残りましたかって言ったら、「いや、大沢さん一人です」って言われて、あれ、話がおかしいなと思ってよくよく聞いたら「あなた受賞者です」って言われて……何の通知もなくいきなりかよと思って、すごいびっくりした覚えがあるのね。
今野 俺は初めての応募だったのよ。書いたきっかけというのが、山下洋輔トリオというジャズのバンドがあって、そこでやっていた森山威男さんというドラマーが好きだったんだけど、脱退しちゃったの、俺が大学1年生のとき。たぶん1975年。森山さんが辞めたというのがショックで、彼を主人公に小説を書こうと思い立った。
大沢 当時、山下洋輔トリオの話が多かったじゃない。
今野 そうそう。
大沢 「面白半分」の全盛期。
今野 全盛期だよね、全冷中(全日本冷し中華愛好会)なんかやって、あの連中が遊んでたころで……。
大沢 当然、付き合いはなかったわけでしょう。
今野 全くない。
大沢 なら学生として憧れていたと。
今野 そうそう。ライブを観にいってただけ。それで書いて友達に読ませたら、けっこう面白いじゃんという話になったんで……。枚数がそのとき30枚ぐらいだったの。それを規定の50枚かなんかに書き直して……。
大沢 初めて書いた小説じゃないでしょ?
今野 初めてではない。高校のときとかは適当に書いてたんだけど。でも、ちゃんと人に読んでもらおうと思って、つまり応募できるような形で書いたっていうのは初めて。選考委員に筒井さんがいるっていうのはやっぱり大きかった。
大沢 それで受賞しちゃうんだ。
今野 だから受賞したあとは大変だった。依頼がきたら全部書かなきゃいけなかったんで。でもそれは、いいトレーニングになったなと思っているのね。
大沢 最初に当然、「問題小説」に書くよね。
今野 書いた。
大沢 ボツとか食らった?
今野 いや、そのまんま。ちょっと書き直しはあったんだけど、ほぼそのまんま載っけてもらっている。
大沢 そのときは大学生?
今野 大学生。4年だったね。
大沢 そのまま小説家一本でいこうとかってなぜ考えなかったの?
今野 いや、これがすごい話で。受かりましたって電話くれた徳間書店の編集者さんに、受賞式のときに「うちの新人賞じゃ食えませんから、就職はなさったほうがいいですよ」って言われたんだよ(笑)。じゃ就職しようと思って。でも3年働けばいいやと思って。3年たったら辞めようと決めてたんだよね。
 
今野敏『怪物が街にやってくる』 大沢在昌『感傷の街角』
 
■悲しき原稿料
 
大沢 変な話だけど、受賞第一作の原稿料とかいくらもらったか覚えてる?
今野 ぜんぜん覚えてないなあ。
大沢 俺は強烈に印象があるのよ。「小説推理」の新人賞もあるし。新人賞というのは賞金だから、原稿料をもらわないじゃん。受賞第一作というのを2〜3ヵ月ぐらいして書いて、1回ボツ食らってもう1本、受賞作『感傷の街角』と同じ佐久間公という主人公をシリーズにして80枚書いたんだけど、ようやく掲載がオーケーになって。『フィナーレの破片』という短篇なんだけど、それをもっていって、2ヵ月後ぐらいに原稿料が振り込みになった。
 耳学問だけはあって、70年代に梶山季之さんが編集している「噂」っていう文壇雑誌を読んでたのよ。作家がつくる文壇雑誌で、下世話だけど下品じゃないみたいな。いろんな作家のいろんなエピソードを集めてあって、そこに原稿料の話だって出てくるわけね。たとえば、五木(寛之)さんと生島さんが「ああ難しい、日本のハードボイルド」なんていうテーマで対談してて、すごく面白かったんだけど、その中にも原稿料の話というのがあって、過去、原稿料で最高額はだれがいくらもらったのかという。
 そこで、昭和28年だか29年に、徳川夢声が、「ぼくは1枚1万円以下じゃ書かんよ」って言ったというエピソードが紹介されてたの。昭和28年の1万円じゃとんでもない金額じゃない。だって一万円札がない時代だからさ。おそらく、俺がデビューした1979年の貨幣価値で考えても、4分の1世紀ぐらい経過しているわけだからさ。そうすると、要するに25年後のぺーぺーの原稿料が25年前の超一流作家の原稿料と同額であっても不思議ではない、ぐらいのことは思うじゃない、物価の変動からいうとさ。要するに25年前の社長の給料が、25年後の新入社員の初任給と同じようなもんだみたいな発想だよ。でも1万円じゃもらいすぎだろうと思って、5000円ぐらいかななんて、トラタヌ(取らぬ狸の皮算用)しているわけさ。80枚書いたら40万円じゃん。40万あれば、まだ若いし、2ヵ月ぐらい食えるかななんて思って。そしたら銀行から電話がかってきて、東京の出版社から振り込みがありましたって。10万円ですって言うから、おい、一ケタ間違ってませんかって聞いた覚えあるもんね(笑)。
今野 俺は憶えてない。でも、10万円ということはなかったな。20万円前後だったと思うよ。
大沢 1枚1500円で、80枚書いて12万で、源泉徴収引かれて10万8000円になるじゃない。これは食えねぇやと思ったよね、そのとき。
 もちろん双葉社の名誉のために付け加えれば、その後、原稿料がどんどん上がっていくんだけど。俺の場合は結局、新聞社に就職が決まっていたのに、断って、筆一本でいこうと決めて……。
今野 その度胸がすごいよね。
大沢 度胸というか、あんまり何にも考えてなかったよね。だからむしろショックだったのは、翌年。81年に書き下ろしで『標的走路』っていう初めての長編を出すんだけど、いわゆる世は新書戦争が始まっていて、4ヵ月ぐらいかかって書いたのかな。やっぱり初版1万2000部、ノベルスで定価600円あったかどうかぐらいだよね。売れれば、印税が入って、重版もあるから何とかなると思った。でも売れるどころか、本屋に行っても並んでもいないという状況だからさ、さすがにこれはちょっと大変だなと思ったね。ただ、今野さんもそうだったと思うけど、80年前後っていうのは、いわゆる各社が新書を一斉に始めて、ラインナップを揃えるために、新人に書き下ろしの注文が多かったんだよね。
今野 あれは助かったね。だから今の新人はすごい大変だと思うんだけど、俺たちは仕事があったんだよね、頑張れば。
大沢 大変なのか。今の新人は(量を)書かない人もいるから何とも言えないんだけど、いわゆるプログラム・ピクチャーのように、3ヵ月とかに1冊ぐらい書き下ろしの注文をこなしていけば、食っていくことはできた。
今野 できたできた。
大沢 しかも、今と違って当時は初版の部数が、最初こそ1万部とか1万2000部だったけど、やっていくうちに、2万部ぐらいは新人でもつくってくれる時代だったから。そういう意味ではありがたかったね。
 ノベルスの初版が、俺はずっと2万5000部だったんだけど、カッパ・ノベルス(光文社)だけは3万部だったんだよね。最低の初版部数は3万部ですって言われた。それだけうちはのれんがあって、販売力があるということだったんだとは思うんだけどね。それがすごく記憶に残っている。
今野 俺カッパだけはやったことないな。ノン・ノベル(祥伝社)とか、メインは今でもそうなんだけど講談社なんだ。あと徳間も出したけど、カッパだけはやったことなかったなあ。
大沢 俺は、ノベルスが最初のころずっと多くて、最初は双葉社で、たぶん次に出したのがトクマ・ノベルスだと思うんだよね。『死角形の遺産』。これを書き下ろしでやって。その次は講談社ノベルスの『野獣駆けろ』だったかな。その前に太陽企画出版というところがSUNノベルスというのを出してて『ダブル・トラップ』というのを『標的走路』の次に出した。これは編プロがノベルスが儲かりそうだっていうんで、小さな出版社と組んで始めたシリーズで、そこで2冊目を出した。3冊目が『死角形の遺産』。
今野 俺たちはノベルスで育ったという気はするな。
大沢 そう。ノベルスで食わせてもらって……。ただ、一方でノベルスをずっと出し続けていることに対する閉塞感みたいなものがあった。それを感じさせたのが81年に出てくる北方謙三さんなんだよね。彼は『弔鐘はるかなり』というハードカバーでポンと出てきて、サクサクッと吉川英治文学新人賞とか日本推理作家協会賞を受賞したんだけど、ことごとくハードカバーだったんだよね。その当時、ノベルスは埋没してしまう、ハードカバーは残るというイメージがあって、俺もハードカバーを出さなきゃいけないなというふうに思ったんだよね。今野さんは最初のハードカバーっていつ頃?
今野 俺94年。
大沢 ずいぶんあとだなあ。
今野 完全に俺は出版界から、「ノベルス書き」だとレッテルを貼られそうになったのよ。半分貼られてた。要するにノベルスでシリーズものをいっぱいもってたし、さっきいったプログラム・ピクチャーみたいに、それで回して食ってた。これじゃダメだなと思ったんだけど、抜け出せないの。
大沢 そうだね。食っていくためには数をこなさなきゃいかんし、といって数をこなしているとハードカバーで勝負できるようなものを書く精神的な余裕がないという。たぶん、同じ境遇にそういう人たちがいっぱいいて、結局、抜け出せないままできた人もたくさんいると思う。逆にいえばノベルスの作家の中でスターになった人、赤川次郎さんであったり、あるいは西村京太郎さんであったり。その前に、いわゆるハードアクション系がはやったから、勝目梓さんとかね。そういう人たちは別格だし、べつにそれで構わないという感覚だったんだろうけど、われわれはひと世代あとだから、そのままいくわけはないと思っていて、やはりハードカバーを出さなきゃいかんなと。
 でも、ハードカバーを出して何の意味があるんだということを、正直、あんまり考えてなかったのね。つまりハードカバーが文学賞の対象になると言われたって、自分の書いたものが文学賞の対象になるなんていうことは夢にも思わないわけだよ。そこまで評価されるとも思わないしさ。
今野 夢には思っているんだけどね。
大沢 まあ、そうなんだけど。実際はハードカバーを出しても、一度も文学賞の候補にならなかったからね。初めて候補になったのがノベルスの『新宿鮫』だからすごく皮肉な話なんだけどさ。そういうことはあったな。
 俺は初めてのハードカバーは、角川書店から出した『夏からの長い旅』。
編集部 8作目ですね。これは85年。今野さんの最初のハードカバー『蓬莱』は62冊目です。
今野 かなり違うな。
大沢 わりに早く俺はそこから抜け出ようとした。ただ売れなかったら一緒でさ、ハードカバーだと6000部とか7000部が当たり前でしょう。
今野 そうそう。『蓬莱』もたぶんそんなもんだったと思うな。
大沢 『蓬莱』のときはすごく周りが騒いだんでよく記憶に残っている。俺も『新宿鮫』を書いてたし、評論家の人たちが『蓬莱』で今野敏は変わるということを言っていて、もちろん俺も『蓬莱』を読んですごく興奮した覚えがある。
今野 帯の推薦文を書いてくれたんだよね、あのとき。
大沢 たしかに面白いと思って。でも、ここから来るかなと思ってからがまた長かったなあ。10年かかったな、さらにそこから。
今野 なかなか飛び立てないもんでね。ただやっぱり、ノベルス作家から抜け出そうというあがきはそこから始まったんです、本気で。
大沢 94年って、デビューしてもう16年たっているわけだからな。
今野 そこからあがきが始まって、ノベルスで食いつつ、その蓄えでハードカバーを書くみたいな生活に入っていったんだよな。
 
大沢在昌『夏からの長い旅』 今野敏『蓬莱』
 
■第一印象は「真面目」「偉そう」
 
大沢 今野さんとよくしゃべるようになったきっかけは、(日本)冒険作家クラブかな?
今野 冒険作家クラブに誘われたことだよね。
大沢 冒険作家クラブの旗あげは、たぶん82年とか83年だったような気がするんだけど、もともと発起人が13人いて、作家では北方さん、それから船戸(与一)のおっちゃん、志水(辰夫)のお父ちゃん、伴野朗さん、田中光二さんとか……。単なる飲み会仲間だったんだけど、それを増やそうという話になって。そのときに今野敏という名前はずっと俺の中にあったんだ。SFプラス、アクション系の仕事をする作家という。同級生だというのは、一緒になってからわかったかな。どこで会って声けたか憶えてない。電話かな。
今野 電話だったね。こういう趣旨なんで参加しませんかという話だったんで、即参加の返事をして。
編集部 今野さんの第一印象は。
大沢 真面目な人だなというイメージがあった。何より驚いたのは、当時、彼は独身なんだけど、仕事場を赤坂のレジデンシャルホテルに持っていて、ネクタイを締めて自宅から通って書くっていうのを聞いたとき。
今野 アタッシェケースでしたよね。
大沢 アタッシェケースにスーツ着て。
編集部 そのときご自宅はどちらでした?
今野 自宅は三軒茶屋。
大沢 何で独りなのに、そんなサラリーマンみたいに通うのかというのがよくわかんなくてさ。
今野 あれは趣味だね。逆にサラリーマン時代にスーツ着てなかったのよ。Gパンだったんで、スーツ着て通ってみたいなというのがあって。
大沢 しかも通勤ラッシュで。
今野 ラッシュでもなかったけど、出かけていく時間は。それに、スーツ着てると外に出るのが楽。誰にでも会えるし。
大沢 作家なんだからジャージ着てたっていいわけじゃない。
今野 いや、当時は気合い入ってたのよ。パーティーあってもすぐ行けるしさ。
大沢 パーティーだってそんなにしょっちゅうあるわけじゃないし、われわれはそのころペーペーだから、そんなに呼ばれてたわけでもないじゃない(笑)。
今野 俺、カジュアルが苦手だったのよ。お洒落じゃなかったんで。決まりきっているんで楽じゃない、スーツ。
大沢 なるほどね。そうかそういう発想が俺の場合、全くなかったから。お洒落っていうのはスーツじゃないだろうっていうのがあって。スーツじゃない格好でどうお洒落をするかっていうことが学生時代からずっとあったからね。スーツを着れば、それは決めるというイメージはあったけど、逆に普段からスーツを着てたら、それは決めることにならないだろうという感覚ではあったなあ。
今野 実は後半、六本木のクラブでグダグダに飲むようになって、ほとんど仕事場に泊まってた。
大沢 俺が六本木のクラブにはまるきっかけをつくったのも実は今野敏なんだよね。俺が銀座の行きつけのクラブを今野さんに紹介して、で、今野さんが六本木の行きつけのクラブを俺に紹介するという格好で、お互い両方とも、銀座・六本木に行くようになったという。
編集部 大沢さんの第一印象は。
今野 偉そうな人だと思った(笑)。だから会ったとき、最初はずっと敬語でしゃべってたんだよ。
大沢 そうそう。同い年なんだから敬語やめろよと言ってもやめないんだよね。
今野 やめられない雰囲気があった(笑)。それに、あっという間に階段を上っていったんで、よけいに敬語をやめられなくて。
「大沢って偉そうになったよね、売れて」って誰かが言ったんだけど「いや、違うよ、あれ昔からだよ」って(笑)。
大沢 よく言われるんだよな、あいつは売れないころから態度がデカくてって(笑)。売れてからも態度が変わらないのは偉いけど、昔から態度がデカかったから、あれ以上態度がデカくなりようがないんだろうなんて言われちゃってさ。
今野 やっぱり雰囲気があるんだよ、敬語を使わせる。
大沢 そんなことはないと思うんだけどなぁ。ただ、冒険作家クラブの第一期の作家って、俺よりみんな年上のわけだよ、謙ちゃんにしても、船戸のおっちゃんにしても、志水のお父ちゃんにしても。西木(正明)さんとかさ。ほとんどみんなタメ口でしゃべってたから。何でかっていうとデビューは俺のほうが早い人がけっこう多くてさ、先輩という感覚なわけさ。実際には先輩とか後輩なんてない世界なんだけど。だって北方さんに初めて会ったときに彼は俺に敬語使ってたからね、「大沢さん」って(笑)。俺のほうがデビュー2年早いし。作家の先輩だっていうことで、本ももう何冊か出てたから。彼が『弔鐘はるかなり』でデビューしたときに、生島さんと集英社の担当者何人かと飯を食って飲みにいったときには、「大沢さんのお作はプロットから……」って(笑)。笑っちゃうよ、今から考えると。
編集部 大沢さんは、生島先生といつもご一緒だったイメージがあって……。
大沢 俺、生島さんの威をかって、北方さんに偉そうにした記憶は全くないけどね。生島さんにすごくかわいがってもらったのは事実だけど、小説の書き方とかは全く教わらなかったよね。小説家としての有りようとか、格好の付け方とかはずいぶん横で見てて学んだけどね。
今野 デビューしたときの選考委員だったからね。
 
■文壇バーの思い出
 
大沢 生島さんは、ものすごく憧れの人だったんだよ。で、『ダブル・トラップ』という2冊目の本が出たときに、自分でも、一生懸命ハードボイルドを書いたという意識があったから、差し上げたいって電話をしたんだよね、勇気を出して。そしたら、じゃ飯でも食おうかって言われて、帝国ホテルへ来いって言われて、天にものぼる心地でさ。ラウンジで待ち合わせて、『ダブル・トラップ』に「生島治郎様」ってサインして渡して。そこで読んで何か言うかなと思っていたら、ペロペロッとめくって「じゃ行くか」とか言われて、すげえがっくりきちゃってさ。
 結局その日は、銀座の寿司屋へ連れていかれて、そのあと「数寄屋橋」「眉」「まり花」っていう、いわゆる文壇バーをひとわたり経験するんだよ。さっき話に出た「噂」という雑誌で文壇バーのことも読んでたから、「数寄屋橋」に行ったあと、じゃ次、行くかって言われたときに、「『眉』ですか」って言ったら、行ったことがあるのかって聞かれて。「いや、そうじゃなくて『噂』でずっと読んでました」って言ったら、「ああ、梶さんがやってたやつだな」って。梶山さんはもう亡くなってたけど、「梶さんはいい人だったな」なんて。
 活字で読んできた世界に自分がいるわけじゃない。めちゃめちゃ興奮したというか、夢がかなったと思ったね。実際行った先で、たとえば眉村卓さんだとか、あのときは吉行淳之介さんもいたんじゃないのかな。紹介されてね。ほんと天にものぼる心地だったよね。
今野 俺も最初、銀座に連れてってくれたのは徳間の編集者だったんだけど。作家はどこかで飲んでるんだろうなというくらいの意識で、文壇バーという意識、全くなかった。
大沢 知識がないもんね。
今野 だけど華やかだったよね、やっぱりね。
大沢 とにかく、キラ星のごとく作家たちがいるわけだよ。森村(誠一)さんがいたり、三好(徹)さんや佐野(洋)さんもいたと思うんだよね。「おう」とか「よう」とか言いながら、「おまえ今月、あそこ(の雑誌)やったか」「まだだ」「あそこは、うるせぇからな」とか、いかにもプロの作家の会話がそこで飛び交っているわけさ。はあ、俺、ほんと夢に見た場所に今ここにいると思ってね。もちろん一言も口なんかきけやしない。「こいつは今度、若手で売り出し中の大沢君だよ」って生島さんに紹介されて、よろしくお願いしますみたいなことを言って、「ああ、そう。よろしくね」なんて言われて……。
 そのとき、俺、今でも憶えているのは眉村卓さんのこと。あの人はすごくいい人だからさ、初対面で、駆け出しの俺でもまともに相手にしてくれた。「あなたはまだ売り出したばかりだからわからないだろうけど、これからあなたが売れるようになると、いろんなところがあなたに原稿を頼みに来る。そうすると、原稿を書く優先順位というものがそのとき問題になってくる。ちょっとだけ先輩のぼくがあなたにアドバイスをさせてください」って言って。数寄屋橋の紙ナプキンに万年筆で「一、勉強」って書いて、「二、名前。三、義理。四、お金」って書いた。この順番に仕事を受けなさいと。一番はお金でもない、名前でもない、勉強になる仕事をやりなさい。二番は名前の売れる仕事、三番は義理のある仕事、お金は最後だって言う。すごく印象に残って、大事に持って帰った。
 それから十何年後に直木賞をもらって、偶然「数寄屋橋」で会ったときに、「眉村さんにあのときに書いていただいたことを、いまだに覚えてます」って言ったら、そしたら、「じゃ、次からは、一番は義理だね。今までいろいろ自分を支えてくれた人たちに恩返しをするんだよ」って言ってもらって……。そういう経験ができただけでもめちゃくちゃ幸運だと思うんだよね。
 俺にとってみれば眉村さんは『ねらわれた学園』の著者だし、自分が読んでた憧れのエポック作家のひとりで、そういう人が生島さんの紹介があったとはいえ、全く見も知らぬ若造のためにそういうことを教えてくれた。そして一つ自分が階段を上ったときに、またじゃ今度はこうだよって言ってくれる。そういう経験っていうのは本当に希有なことだと思うんだよね。
今野 最初だけではなくて、後日談があるのがいいね。
大沢 いわゆる文壇的なものっていうのはほんとに今なくなっちゃっているけど、今野さんと俺は最後の世代。北方さんぐらいまでかな。
「数寄屋橋」と「眉」という二大文壇バーがあって、パーティーが終わると作家はみんなそこに行くわけだよね。で、「おまえ今日どっちから?」「俺は『眉』から」、「じゃ俺は『数寄屋橋』から」「途中どこかで会おうよ」みたいなことを言い合って、売れっ子作家たちが、銀座の街をぞろぞろ動いているわけだよね。
 パーティーのあと「数寄屋橋」とか「眉」に行くと、「おかえりなさい」って言われるんだよね。これがまたちょっとしびれてね。パーティー会場にも、ホステスのお姉さんたちが来てるんだけど、お帰りなさいっていう迎えられ方って、やっぱりすげくカッコいいなと思ってね。きれいなお姉さんがどうこうじゃなくて、自分がそこにいることを認めてもらえたということの喜び。つまり作家の端くれとして、今、俺はこの東京の銀座のすごい人たちが集まる同じ場所にいることを許されてるという感動っていうか、うれしくてうれしくてしょうがなかった。本が出たことよりも、そこに今自分がいることこそが、自分が作家になったという実感を味わえた。
今野 俺も大沢さんほどじゃないけれども、銀座で飲むということはすごく大切だと思ってた。隣の親父が書いたものなんて一般読者は読みたかねぇ、やっぱり銀座で飲んでなんぼだろうと。華やかな話をして、原稿料の話もして、編集者の悪口も言って……。だからそういう雰囲気を大沢さんほどではないけれども味わってたね。
 あるとき編集者に、実はおまえを連れてったのは、笹沢左保の名前で伝票を切ってたって言われてね。いつかは俺の名前で飲みたいと。
大沢 俺も当然、そういうことは多々あったろうと思うんだよ。行って2年目か3年目ぐらいから、「数寄屋橋」は自分の勘定で飲みます、請求書を送ってくださいって言って、月に1回か2回、自腹で飲むようになって……。自分で飲んでるんだからと思いながらも、何だあの若造、ひとりで偉そうにって言われるんじゃないかという緊張感はつねにあったよね。
今野 へぇー。意外だなそれは。
大沢 やっぱり、行っても知らない人がいっぱいいるわけだよ。作家だか編集者だかわかんない。「数寄屋橋」の当時のお姉さんたちはみんな若者に親切で、あの人はだれって聞くと、あれはどこどこっていうところの編集者のだれだれさんよとか、あれは作家のだれだれさんよって言うんだけど、べつにコネをつくりに行ってるわけではないから、紹介されないのに挨拶をしたりとか、そういうことはしなかったんだ。一方で、生意気なやつだと思われるかもしれないなとは思ったよね、挨拶がねえって。
今野 挨拶しにくいでしょ、こっちから。
大沢 そこにいるっていう自分を味わいたいだけで行ってたから、変にさもしいやつだとは思われたくないというのもあったのね。ただ、編集者に連れていかれるときはきっと、目上の作家の名前、それこそ生島さんの名前とかで飲ませてもらっているんだろうと思った。
 そのときは、自分の名前で飲みたいというのはもちろんのことだけど、いつか自分がそういうときに使われる名前になりたいと思った。若い作家を飲ませるときに、今日は大沢さんと飲んだことにしておくかって編集者が思って、伝票が会社で通るっていう、そういう作家になりたいとは思ったね。
今野 それはあるなあ。大沢さんには生島治郎さんというものすごい憧れの人がいて、その人と一緒に行けたっていうのが羨ましい。俺の場合、筒井康隆さんは神戸にいらっしゃったから、なかなかお会いできなくて。やっぱり日本でいちばん好きな作家っていうと、筒井さん。
大沢 俺にとっての生島治郎さんと同じだね。
今野 憧れの作家。最近、初めてじっくり飲んだ。最近だよ(笑)。そうしたら「ぼくはこれからライトノベルを書きますから」って言うから、たいしたもんだな、この人はって(笑)。
大沢 やっぱり自分が憧れて、ファンレターを中学時代に出したような人と一緒に酒を飲んだり、麻雀を打ったり、ゴルフをやったりできる幸運なんていうのは、そんなに何人もの人間に得られるものじゃないわけで。ただ、なぜ自分はこんなに生島さんに可愛がってもらえたのかといったら謎だよね。歳も20以上違うし、息子みたいなもんだと。そういう仏心が働いたのかなとも思うけど、一方で、生島さんの若いころを知る銀座のホステスさんたちに、あの人が若者を連れて歩くなんて考えられないって言われたのね。それぐらいクールでニヒルな人で、若い奴に優しくするとか、全くイメージがないって言われてびっくりしたこともあったけどね。
今野 ぼくはほんとに晩年の生島さんしか知らないんで。
大沢 理事長とかをやられたあとだよね。もう好々爺っぽくなってたよね。
今野 若かったけどな、あの当時でもね。
大沢 生島さんのおかげで、俺はいわゆる昭和ひとケタから上の人たちと、俺は知遇を得たというと大袈裟だけど、やっぱりみんな一人ひとり、すごいオーラがあるんだよな。作家以外の何者でもないなというか、たたずまいというかさ。言うことがひと言ひと言カッコいいしさ。こんなふうに俺なれないなと思ったよ。
今野 なってんじゃないの(笑)。
大沢 いやいや、なってない、貫禄がない。だってもう俺、初めて会ったときの生島さんの年齢を超えてるわけだよ。俺が初めて会ったとき、たぶん生島さんは40代の終わりなんだよね。でもあんな迫力、俺ねぇやって思うもん。
今野 いや、これは自分たちではわからないよ。この間ちらっと聞いたんだけど、若い人が(推理作家協会の)理事会の席に行ったら熱が出るって言ってた。まわりのオーラがすごすぎて。大沢さんとか、宮部(みゆき)さんとか、京極(夏彦)さんとかを見るとすごいことになってたんだと思うよ。
大沢 そうなのか。
今野 だからこれからは、大沢さんはもうやってるんだけど、若いやつを連れて俺たちが飲み歩かなきゃいけないんだよね。
大沢 そうだね。
 

(後編へ続きます)

作家生活30周年スペシャル対談 後編へ
close