大沢 |
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変な話だけど、受賞第一作の原稿料とかいくらもらったか覚えてる? |
今野 |
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ぜんぜん覚えてないなあ。 |
大沢 |
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俺は強烈に印象があるのよ。「小説推理」の新人賞もあるし。新人賞というのは賞金だから、原稿料をもらわないじゃん。受賞第一作というのを2〜3ヵ月ぐらいして書いて、1回ボツ食らってもう1本、受賞作『感傷の街角』と同じ佐久間公という主人公をシリーズにして80枚書いたんだけど、ようやく掲載がオーケーになって。『フィナーレの破片』という短篇なんだけど、それをもっていって、2ヵ月後ぐらいに原稿料が振り込みになった。
耳学問だけはあって、70年代に梶山季之さんが編集している「噂」っていう文壇雑誌を読んでたのよ。作家がつくる文壇雑誌で、下世話だけど下品じゃないみたいな。いろんな作家のいろんなエピソードを集めてあって、そこに原稿料の話だって出てくるわけね。たとえば、五木(寛之)さんと生島さんが「ああ難しい、日本のハードボイルド」なんていうテーマで対談してて、すごく面白かったんだけど、その中にも原稿料の話というのがあって、過去、原稿料で最高額はだれがいくらもらったのかという。
そこで、昭和28年だか29年に、徳川夢声が、「ぼくは1枚1万円以下じゃ書かんよ」って言ったというエピソードが紹介されてたの。昭和28年の1万円じゃとんでもない金額じゃない。だって一万円札がない時代だからさ。おそらく、俺がデビューした1979年の貨幣価値で考えても、4分の1世紀ぐらい経過しているわけだからさ。そうすると、要するに25年後のぺーぺーの原稿料が25年前の超一流作家の原稿料と同額であっても不思議ではない、ぐらいのことは思うじゃない、物価の変動からいうとさ。要するに25年前の社長の給料が、25年後の新入社員の初任給と同じようなもんだみたいな発想だよ。でも1万円じゃもらいすぎだろうと思って、5000円ぐらいかななんて、トラタヌ(取らぬ狸の皮算用)しているわけさ。80枚書いたら40万円じゃん。40万あれば、まだ若いし、2ヵ月ぐらい食えるかななんて思って。そしたら銀行から電話がかってきて、東京の出版社から振り込みがありましたって。10万円ですって言うから、おい、一ケタ間違ってませんかって聞いた覚えあるもんね(笑)。 |
今野 |
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俺は憶えてない。でも、10万円ということはなかったな。20万円前後だったと思うよ。 |
大沢 |
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1枚1500円で、80枚書いて12万で、源泉徴収引かれて10万8000円になるじゃない。これは食えねぇやと思ったよね、そのとき。
もちろん双葉社の名誉のために付け加えれば、その後、原稿料がどんどん上がっていくんだけど。俺の場合は結局、新聞社に就職が決まっていたのに、断って、筆一本でいこうと決めて……。 |
今野 |
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その度胸がすごいよね。 |
大沢 |
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度胸というか、あんまり何にも考えてなかったよね。だからむしろショックだったのは、翌年。81年に書き下ろしで『標的走路』っていう初めての長編を出すんだけど、いわゆる世は新書戦争が始まっていて、4ヵ月ぐらいかかって書いたのかな。やっぱり初版1万2000部、ノベルスで定価600円あったかどうかぐらいだよね。売れれば、印税が入って、重版もあるから何とかなると思った。でも売れるどころか、本屋に行っても並んでもいないという状況だからさ、さすがにこれはちょっと大変だなと思ったね。ただ、今野さんもそうだったと思うけど、80年前後っていうのは、いわゆる各社が新書を一斉に始めて、ラインナップを揃えるために、新人に書き下ろしの注文が多かったんだよね。 |
今野 |
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あれは助かったね。だから今の新人はすごい大変だと思うんだけど、俺たちは仕事があったんだよね、頑張れば。 |
大沢 |
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大変なのか。今の新人は(量を)書かない人もいるから何とも言えないんだけど、いわゆるプログラム・ピクチャーのように、3ヵ月とかに1冊ぐらい書き下ろしの注文をこなしていけば、食っていくことはできた。 |
今野 |
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できたできた。 |
大沢 |
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しかも、今と違って当時は初版の部数が、最初こそ1万部とか1万2000部だったけど、やっていくうちに、2万部ぐらいは新人でもつくってくれる時代だったから。そういう意味ではありがたかったね。
ノベルスの初版が、俺はずっと2万5000部だったんだけど、カッパ・ノベルス(光文社)だけは3万部だったんだよね。最低の初版部数は3万部ですって言われた。それだけうちはのれんがあって、販売力があるということだったんだとは思うんだけどね。それがすごく記憶に残っている。 |
今野 |
: |
俺カッパだけはやったことないな。ノン・ノベル(祥伝社)とか、メインは今でもそうなんだけど講談社なんだ。あと徳間も出したけど、カッパだけはやったことなかったなあ。 |
大沢 |
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俺は、ノベルスが最初のころずっと多くて、最初は双葉社で、たぶん次に出したのがトクマ・ノベルスだと思うんだよね。『死角形の遺産』。これを書き下ろしでやって。その次は講談社ノベルスの『野獣駆けろ』だったかな。その前に太陽企画出版というところがSUNノベルスというのを出してて『ダブル・トラップ』というのを『標的走路』の次に出した。これは編プロがノベルスが儲かりそうだっていうんで、小さな出版社と組んで始めたシリーズで、そこで2冊目を出した。3冊目が『死角形の遺産』。 |
今野 |
: |
俺たちはノベルスで育ったという気はするな。 |
大沢 |
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そう。ノベルスで食わせてもらって……。ただ、一方でノベルスをずっと出し続けていることに対する閉塞感みたいなものがあった。それを感じさせたのが81年に出てくる北方謙三さんなんだよね。彼は『弔鐘はるかなり』というハードカバーでポンと出てきて、サクサクッと吉川英治文学新人賞とか日本推理作家協会賞を受賞したんだけど、ことごとくハードカバーだったんだよね。その当時、ノベルスは埋没してしまう、ハードカバーは残るというイメージがあって、俺もハードカバーを出さなきゃいけないなというふうに思ったんだよね。今野さんは最初のハードカバーっていつ頃? |
今野 |
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俺94年。 |
大沢 |
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ずいぶんあとだなあ。 |
今野 |
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完全に俺は出版界から、「ノベルス書き」だとレッテルを貼られそうになったのよ。半分貼られてた。要するにノベルスでシリーズものをいっぱいもってたし、さっきいったプログラム・ピクチャーみたいに、それで回して食ってた。これじゃダメだなと思ったんだけど、抜け出せないの。 |
大沢 |
: |
そうだね。食っていくためには数をこなさなきゃいかんし、といって数をこなしているとハードカバーで勝負できるようなものを書く精神的な余裕がないという。たぶん、同じ境遇にそういう人たちがいっぱいいて、結局、抜け出せないままできた人もたくさんいると思う。逆にいえばノベルスの作家の中でスターになった人、赤川次郎さんであったり、あるいは西村京太郎さんであったり。その前に、いわゆるハードアクション系がはやったから、勝目梓さんとかね。そういう人たちは別格だし、べつにそれで構わないという感覚だったんだろうけど、われわれはひと世代あとだから、そのままいくわけはないと思っていて、やはりハードカバーを出さなきゃいかんなと。
でも、ハードカバーを出して何の意味があるんだということを、正直、あんまり考えてなかったのね。つまりハードカバーが文学賞の対象になると言われたって、自分の書いたものが文学賞の対象になるなんていうことは夢にも思わないわけだよ。そこまで評価されるとも思わないしさ。 |
今野 |
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夢には思っているんだけどね。 |
大沢 |
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まあ、そうなんだけど。実際はハードカバーを出しても、一度も文学賞の候補にならなかったからね。初めて候補になったのがノベルスの『新宿鮫』だからすごく皮肉な話なんだけどさ。そういうことはあったな。
俺は初めてのハードカバーは、角川書店から出した『夏からの長い旅』。 |
編集部 |
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8作目ですね。これは85年。今野さんの最初のハードカバー『蓬莱』は62冊目です。 |
今野 |
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かなり違うな。 |
大沢 |
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わりに早く俺はそこから抜け出ようとした。ただ売れなかったら一緒でさ、ハードカバーだと6000部とか7000部が当たり前でしょう。 |
今野 |
: |
そうそう。『蓬莱』もたぶんそんなもんだったと思うな。 |
大沢 |
: |
『蓬莱』のときはすごく周りが騒いだんでよく記憶に残っている。俺も『新宿鮫』を書いてたし、評論家の人たちが『蓬莱』で今野敏は変わるということを言っていて、もちろん俺も『蓬莱』を読んですごく興奮した覚えがある。 |
今野 |
: |
帯の推薦文を書いてくれたんだよね、あのとき。 |
大沢 |
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たしかに面白いと思って。でも、ここから来るかなと思ってからがまた長かったなあ。10年かかったな、さらにそこから。 |
今野 |
: |
なかなか飛び立てないもんでね。ただやっぱり、ノベルス作家から抜け出そうというあがきはそこから始まったんです、本気で。 |
大沢 |
: |
94年って、デビューしてもう16年たっているわけだからな。 |
今野 |
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そこからあがきが始まって、ノベルスで食いつつ、その蓄えでハードカバーを書くみたいな生活に入っていったんだよな。 |